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I.  劉明先生(孫達への伝言)
3.  大粗坑
 
「大粗坑」それは、現在日本からの観光客の参観項目の一つとして有名な鉱山の町「九份」の、裏側の山の中腹にある小さな集落の名です。地下には埋蔵量の多い金鉱脈があり、父の来る以前には、時には浅い坑道の壁にも、手で摘まみ取れるほどの大きさの金鉱石があったりして、一時は多くの人々を呼び入れていたのでしたが、父が行った時には、そんな鉱石は取られ尽くしていて、集落の住人もだんだんと山を下りてしまい、ほんの少しの住人しか居ない、寂しい所と成っていました。
父の言い付かった役目は、「期限の残った採掘権を守る為の駐留」ですから、勿論資本金などと言ったのはありません。
しかし、何事にもくじけない父の性分です。廃坑を見て回った彼には、日本留学で学んだ現代科学と言う武器と、誰とも友人になれると言う無形の資本がありました。嘉義での幼友達、留学当時の意気の合った友人等に話しかけたり、残っている住民達とも打ち解けて、間もなく新しい第一歩が踏み出されたのです。
父が行った頃の採鉱法は、手で「三宝掘仔」(台湾語サンポークッラー)と言う、農業で使う鍬の半分ほどの長さの、小さな鍬に似て居るが、左右両面に掘り具があって、両面を使える道具で、坑道を掘って出した金鉱石を、人工で打ちくずし、水で金を洗い出すという方法でした。幼かった頃、一度だけその仕事場を覗いた事が有りましたが、それは、細いボートの様な形の鉄器の中に鉱石を入れ、真ん中に柄を通した、丸い鉄盤をその船のような形の中に入れて、水を流し入れて、足で柄を押して鉄盤を押し戻しして転がせながら、鉱石を挽き崩すやり方で、作業夫は、ずらりと並んだその仕掛けの後にある長い板に並んで座り、足を動かしながら、腕組みをしておしゃべりをしたりしていました。なんだか結構楽しそうでしたので、興味津々の私は、自分もその長い椅子に座ろうとし、危険だと、すぐ追い出されました。危険よりも事業主の娘、しかも小学生の女の子が、そんな所に居ては何かと邪魔だったのでしょう。
大祖坑に入った父は古い遣り方を続けながら、積極的に行動し、地質技師に地下の鉱脈を探索させ、鉱脈が見つかるとダイナマイトで爆破させて掘り進むといった現代式の採鉱法を取り入れました。更に事務方面も系統立て、一つの現代式な事業体に仕上げていったのです。その近代的な経営法は皆に利益をもたらし、金の生産量もだんだんと増えましたので、職員も、鉱夫も増え、大粗坑はだんだんと発展していきました。
私達母娘が始めて大粗坑入りした時の事を、私ははっきりと思い出せませんが、その大粗坑が、父の努力で一応形を成し、希望も見えてきた頃だったと思います。多分父が先に行って二.三年後だったでしょう。私はまだ母に抱かれていた幼子だったそうです。
足の弱い母が山腹の宿舎まで上っていくのは無理だと思った父は、母の為に特製の駕籠を用意しました。それは平地で使われている様な、屋根や囲いのついた駕籠ではなく、手すりのついた大振りの竹椅子を二本の太い竹の中ほどにくくりつけて、人夫が前後から担ぐ。と言う簡単な、そして危なっかしい、乗り物でした。その駕籠に母は幼い私を膝に抱いて乗っていったのですが、途中、道端に小さな祠があって、駕籠かきの人達は其処の小さい前庭で一休みをしました。私達も駕籠から降りて休んでいると、突然回りの藪の中から大きな蛇が出てきて、にょろりとその祠の中に入り込んだのです。誰もそれに気付かなかったのに、なぜか幼い私がそれを見つけて珍しそうに指差していました。蛇は絶対に怖い私なのですが、多分その時はまだ蛇を見たことも無く、なぜか、気味が悪いとも恐ろしいとも思わなかったのではないでしょうか。それは其処に住んでいる人達も見たことの無い全身真っ白な蛇だったそうです。毒蛇の多い山中の事、父はすぐに毒蛇と疑い、すぐさま連れの人達に祠の中を探させましたがどうしても見つかりません。それでは、祠全体を囲って燻し出そう、毒蛇は退治せねば、何時誰を襲うか知れないから放っては置けない。と父が言ったのを聞いて、お供をしていた在所の人が、旦那様、白蛇は神様のお使いと言われています。もしやこの祠の山神様のお使いで何かのお告げだったのかも?と阻止したのです。住民の安全の為に、有害動物を除くことが何よりも大切だと思っていた近代思想の父は、その時始めて、村人達の信仰を大切にせねばならないと悟って、祠の中の神様に両手を合わせました。後に父は事務所のずっと上の山腹に大きな山神様の廟を建て、その廟は今でも村人達の信仰を集めているとのことです。
事務所から少し離れた場所に矢張り段々畑のような狭い平地があり、私達の住まいが其処に建っていました。
大祖坑についた母はすぐにその生活に溶け込み、父の事業体を一つの大家族のようにまとめ、職員の家族ばかりか以前からの住人の家族とまでも親しく付き合い、皆の尊敬を集めました。事業がまだ小さかった頃は、会計も母がしていたようですが、そのうちに職員が増えていくと、母は村の女性達に色色な事を教え始めたのです。金の製錬には、ウールの厚い布が使われるので、それを父は香港から毛布を取り寄せて使っていました。毛布を縦長に切って敷き、その上に搗き崩した鉱石を水と一緒に流すと、粗い生地に金だけが残るという仕組みではなかったでしょうか。それは、金鉱では工業用に使われて居ても、元来が毛布ですから、真っ赤な毛布に鮮やかな縁の毛糸で編んだ縁取りがされていました。毛布は、鉱石から金鉱石の成分を漉しだす目的に使うのですから、その縁は、採鉱には不要の長物。真っ先に切り取られてしまいます。それに目をつけた母は、村の女性達にその切捨てられた端の部分の緑の毛糸を解きだし、それで色色な物を編む事を教えました。それで、その頃の村人達の家々には、鮮やかな緑の毛糸で編んだ緑のチョッキ、緑セーターがまるで制服のように着られていました。母は自宅にもずっと取り入れたので、それは何年も続き、私と20年も歳が違う末の弟までも使っていて、緑のチョッキ、緑のセーターを赤ん坊の時から着せられていました。又、工場で使った後の毛布は適当な大きさに裁断して、きれいに洗い、おむつカバーとして使うと漏れないので、末の弟に当てられていましたが、それは赤ん坊の肌には固すぎるようでしたが、暖かそうでした。母から編み物や裁縫などを習った村の女性達は、お返しに、母に純郷土風の漬物の付け方を伝授しました。木綿豆腐を干して硬くした特製の豆腐漬け、茹でた大豆を発酵させて作った台湾味噌。その中に漬けた胡瓜、大根、時には若い筍、冬瓜までもあり、それらは食卓に出すと、食が進み、どの皿よりも先に空になるのです。母は、事業主の妻でしたが、その人達を何々姉さん、何々叔母さんと、親戚のような呼称で呼び、私達にもそうさせていましたので、彼女等は母を師とも友とも慕っていて、家庭内の問題なども母と相談していました。こうした母と村人達の交友は、母が山を下りて数十年も立った後までも続き、年取った往年の主婦達、中にはその娘の代の人達までも、昔と同じく母を慕って台北に来たからと言っては尋ねて来、母と懐かしそうに昔話をしていました。時には母が山に居た頃に漬けたのと同じ漬物や台湾餅などを持ってくる人もあって、老いた母を殊更に喜ばせてくれていました。山の短い春の、柔らかい日当たりの中で、母が一壷一壷の漬物の壷を並べていた光景が今でも思い出されます。
父の科学的な製錬法は効を奏し、金鉱は、坑内の土からも金の成分を取り出す事に成功しました。何も無いと思われていた土からも僅かながらも金がとれるようになったのです。手掘りで採鉱していたときとは大きな違いで、当然のことに生産量もずっと多くなっていきました。
父は、事務所の門前の庇の下に一日の仕事の始まりと終りの時間を皆に知らせる鉄の円筒形の鐘を提げて、坑内への出入りの時間を皆にしらせました。鉱夫達は坑内に入る前に必ず事務所から札を貰い、当日の仕事が済んだらその札を事務所に返さねば成らないので、必ず帰宅前に事務所に寄りますが、札のほかに、彼等は穿いて行った草鞋も其処で替えていきます。つまり、一日中坑内に居た彼らの草鞋についている土にも幾らかの金成分があるので、事務所がその、草鞋の土を買い取る。と言う仕組みなのです。捨てられる筈の草鞋からも金成分が取れるので、それは採鉱夫の収益にもなり、喜ばれていました。履き汚れた草鞋が売れるのは、多分この金鉱事務所ならではの事で、他に類を見ないことでしょう。話によると、事務所に草鞋を返さない人も居て、それは、休日に行く九份での博打で負けて懐が空になった時、その草鞋を金細工店で脱ぐと即時に現金に換えてくれるのだそうで、草鞋はそれにも珍重されていたそうで、考えようによっては、彼らは金の草鞋を履いて働いていたという事にも成り、今思い返せば、まるで御伽噺のような話です。
清らかな山の空気の中にカンカンと響く鐘の音は、谷の合間に散らばっている家々の何処からも聞こえて居ましたが、実は、この鐘はそんな呑気な事ばかりではなく、急病人の運送、などの非常事態の発生にも使われていました。
金の産量が多くなり、それが近隣の村々にも知れる頃には、凶器を持った金泥棒も時々やって来ていました。彼らは、鑑札がなければ入ってはならない坑内に、退勤時間後に忍んで来、巡回している警備員が咎めると格闘になり、怪我人が出ます。又、鉱脈を掘り出すのに手掘りの他にダイナマイトで爆破させて掘進するようになると、その振動による落盤での怪我人。そんな時には一刻も早く、外からの救助隊を坑内に入れたり、怪我人を山の向こうの九份か、一つ手前の駅の瑞芳にある医者に背負って行かねばなりません。出来上がった金塊を契約先に納めるために山を下る時、それを知った強盗が、普段通る道の少し上にある隠れた道を通って、突然奪い掛かる事もしばしばあります。その様なときの警報。更には、山火事の際の警鐘にも。
人里離れた大祖坑での食料は、豚や鶏は各家庭で養い、魚介類は山を越した海岸から、天秤棒に下げられた竹籠に揺られて魚屋さんが遥々と担いで来ます。新鮮なのもありますが、大抵は、蒸した鰯や軽く干した小魚のような、日持ちのする魚でした。野菜類は人々が山の傾斜を小さな畑に耕して作っていましたが、その肥料にするために、種蒔き前に雑草を焼いて、時々失敗するのです。山の中の何処かで細い煙が立ち、運悪く風向きが変ると、遠い所からでも炎がちらちらと見え出し、すぐに事務所の早鐘が打たれます。忽ち坑内の人々までもが総出で鍬や鉈を持って山に走りました。山火事のあったその日、それらの人達を見送りながら、カンカンと何時までも打たれている鐘の音の中で、私は体を硬くして立ち尽くしていました。事務所の裏の、なだらかなススキ野の下方から、横一筋になった炎が、山の上にむかつて上がって行くのです。まるで大きな黒い蛇か、何かの生き物のようにくねりながら山頂に向かって進む炎の帯。その後に出来た、真っ黒な焼け跡の帯は急速に太くなって、山の向こうの九份に行く時に通る美しいススキの原が、見る見るうちに真っ黒な山肌に変っていっていました。幼かった私が、発熱すると九份にある唯一の医院に負ぶって行かれた道。給料日には鉱夫達が、酒飲みや博打、更には女を求めて、いそいそと登って行っては、懐を空にして帰ってくるあの道。「あの道が焼けている」と、子供心にも、とても恐ろしい光景でした。
金の産量も増え、事業も軌道に乗ったのですが、父はそれでは満足せず、以前の原始的な設備は、間もなく大きな機械に取って代わり、父は山の中に第一搗鉱場、第二搗鉱場、第三搗鉱場と、コンクリート造りの高い大きな搗鉱場を次々と建てて行きました。第三搗鉱場は駅から上がってくる途中の谷川の辺にあり、事務所にも近いので、私達の特に好きな遊び所とも成っていました。ガッタン、ゴットンと谷中に響く機械の音は、遊び好きな子供達には耳障りにはならなく、谷川の水の中に頭を出している岩と岩の上を跳び回ったり、蝦釣りをしたりするのです。でも、子供だけでは危ないので、行く時には事務所の若い人がついていなければ行かせて貰えず、楽しかった思い出だけは残っていても、実際には、しばしばとは行けませんでした。
長兄の命令で南洋行きを諦めて来た大祖坑でしたが、父は「無」から「有」を生み出す様に見事にその困難を乗り越え、此の事業体は嘉義の家族事業の「振山」の名を取って「振山実業社」と名づけられました。振山実業社は間もなく、契約会社との再契約もでき、社名も世に知られ、父自身も、金鉱業者ばかりでなく、地方での人望も厚く、総督府の方にも名が知られるように成っていました。博打や出来心での小さな盗みなどが捕まって、それが大祖坑の住人で、親に泣きつかれると、父が警察に行って頼んであげてもいたようです。
 
事業が順調に行くと、父が考えたのは、大祖坑の人々の生活でした。先ず始めに手をつけたのは、低学年の児童が勉強できる教室を建てる事。大祖坑には学校が無いので、子供達は学齢に達すると山の下の学校に通わねば成りません。大人の足でも四十分ほどは掛かる山道、冬の寒さに加えて雨でも降れば、滑って危ないし、冬の山風の鋭さは大人でも辟易するほどです。それを七.八歳(数え年)になったばかりの、年齢的にも体格的にも小さく弱い子供が行き来するのがどんなに大変な事か。其の為に学校に行けない児童もあったことでしょう。父は、山の傾斜を整備して、其処に教室を作りました。そして当局に、せめて低学年の学童が山を上下して通学せずに、大祖坑で勉強出きる様に、教員を派遣する事を政府に陳情しました。又、奨励のために学童には文法具、鉛筆や紙などを各々に配ってあげたのです。大祖坑の児童の就学率が上がったのは、言うに及びません。現在芸能界で活躍している映画監督の呉念真はその学童の一人で、彼の回顧録にその思い出を書いています。
父は、自分の会社の職員の社会教育にも関心を持っていました。年に一度の慰労会。その時に父が皆を引き連れていくのは、飲んだり食べたりのドンジャン騒ぎではなく、聾唖学校、盲人学校、精神病院、などと言った、社会的に不遇な人達を助ける慈善事業の場でした。父は自分の身の回りの人達に、世の中にこの様な気の毒な人々が居る事を実感し、同情心を皆に持たせたかったのです。その行事は後に事業が大きくなってからも続き、時に父は、団体で出る職員達の身なりを整える為に、各々にスーツ(以前は背広と言っていました)を新調もしてあげていたそうで、そっちの方で喜ばれていたのかもしれません。
私を幼稚園に上がらせる為に母と私が台北市内に移り住んだ頃は、まだ事業がそんなに発展はしていませんでした。小さな借家で家具もなく、食事時の小さな、畳み込み式のちゃぶ台はありましたが、蜜柑の空き箱が机代わりの生活でした。今思えば、山を下りた母には、きっと不安があったでしょうし、突然母が離れて父も困ったことでしょう。然し、父は仕事で台北に出ることもしばしばあり、その後ずっと台北で生活をしていた私達も、夏休みなどには必ず大祖坑に戻っていましたので、完全に大祖坑から離れたわけではありませんでした。
昭和の始め頃、台北から大祖坑に行くには、台湾の南北を走る縦貫鉄道の上り列車で台北駅から台湾最北端の基隆に向けて北上、松山、南港、汐止、五堵を過ぎて八堵駅で宜蘭線に乗り換え、暖暖、四脚亭、瑞芳、と行き、瑞芳を出て最後のトンネルを抜け出た所の猴洞駅で降りるのです。そのあたりはトンネルが多く、トンネルの中は蒸気機関車の煙突から出る煤煙で息苦しかったので、トンネルを抜け出た直後に降り立つ、緑濃い山に囲まれ、広々とした猴洞駅は、ことのほかに清清しく思われて居ました。私は猴洞駅に降り立つと必ずほっとして、まるで山の上の大粗坑に向かって「帰って来たわよー」と告げるかのように、大きな深呼吸を何度もしていました。
汽車を降りて、猴洞駅の裏の広場にある、何本もの線路を横切って山の方に向かっていくと、川に突き当たります。その川は、川幅は広いが、深くなく、山から流されてきてそのまま其処に止まっている大小の岩の間を、山から降りてきたばかりの清流が何時も忙しそうな水音を立てて流れていました。母は、その後も駕籠を使っていましたが、小学生の頃の私は乗らずに、迎えに来てくれた若い人達と一緒に吊橋を渡って山に入っていきました。大粗坑までは、其処から歩いて四十分ほどの登り道だったようです。殆ど行き交う人に会わない細い山道では、自然のままの岩を登ったり、大きな岩二つ三つを無造作に重ねて石段にした所もあり、時には大きな木の根が盛り上がったのを跨いだり、ある箇所などは大きな岩のそばをぐるりと回って行く小さな道だったりしていました。それは子供心には少しも苦にはならず、むしろその山道を楽しんで私は何時も元気よく登っていました。登るに連れて山の景色は変り、直下にせせらぎのある深い崖の縁にはススキがびっしりと生え、台湾特有の山の花などが咲いていたのも楽しい思い出です。小学校の子供の足で疲れたと思うあたりまで登ると、道は二つに分かれて、右側は、事務所や木造の職員宿舎などがある所に向かって石段があり、左を登ると、以前からそこにいた人達の住む界隈に入ります。家々は、大小の石を重ねて作られて居、大きな段々畑のような所に建っていて、石の屋根、石積みの壁。でも家の中には、ちゃんとした伝統的な仏壇もある住み易い感じの台湾式家屋で、どの家も地所の外回りを石垣でぐるりと囲われていました。山の風は強く、台風も少なくないのです。
その分岐点の近くには、父が来てからの発展で、小さな居酒屋までもあり、繁盛していた頃は、夜になると、ずっと上にある職員宿舎にまで、遊女の弾く胡弓の音が風に乗って聞こえてくる事もありました。其処の、小さな、深い谷川に架かっている橋まで来ると、私はほっとして上を見上げ、最後の石段を、息を弾ませながら急ぐのです。その頃には、事務所で飼っている犬、台湾原産種でしょうか、体の大きなポチが、嬉しそうに飛び出して私達を歓迎してくれていたのも嬉しい思い出です。ポチはとても忠実で、どうしてか年に一、二度の私達の帰郷の日を知っていて、この日になると朝からそわそわして落ち着かず、時には駅に迎えに来る人達について降りてくる事もありますが、大抵は留守番を申し付けられて追い返されています。然し、ある夏、私達が台北に戻るのを駅まで付いて来て、汽車の中に入った私達を探して線路の上を飛び回っていた時に、突然入ってきた汽車に跳ねられて命を落としてしまいました。我が家が一番初めに飼った犬。その後にも数多く飼った犬達の中でも、一番忠実で私達と仲の良かった犬でした。彼は、今でも私の心の中にその薄茶色の毛並みの感触と共に生き残っているのです。
宿舎に着くと、何かと忙しくし始める母をよそ目に、私は早速外に出ます。懐かしい「金仔山」(キムァスゥア、金の山と言う意味の台湾名)。私達は大祖坑をそう呼んでいました。あの山を出て台北市内に移り住んだ私にとって大祖坑は、私の生涯の中で一番懐かしい所なのです。
  
宿舎の前は事務所から坑口に続く道で、道と言っても、山の傾斜に石を積み重ねて平地にした、崖の上の道なので、その縁に沿って丈夫な垣根が回らされていました。その垣の傍に立ち、小学校も高学年の頃の私は先ず周囲の景色を眺めます。大祖坑は、ずっと下のほうにある谷川を囲んでいる山々の、山間にあるので、こちらから眺めると谷を越した向こうの山並が見えます。遠く低く、重なり合った山々。向かって右側の一番端の山の中腹を小道が巡り、端まで行って向こう側に折れていました。その曲がり角にぽつんと一本の電信柱。こちらから見ると半分倒れ掛かっているように見えていて、風当たりが強そうなのに、よろけもしないで何時もそのままの姿勢で立っています。あの道を曲がって行ったら何処に行くのだろう。どんな景色が広がっているのだろう、一度行って見たいなー。と私はいつもその道を見ながら想像をめぐらせていました。沈み行く夕日が見え始め、涼しくなった山風に頬を撫でられながら、夏の夕べの空一杯に散っている夕焼け雲の薄いオレンジ色がだんだんと濃くなり、あたりがだんだんと薄暗くなる頃には、吉屋信子の少女小説の中の女の子のように、すっかりロマンチックな気持ちに成って長い事立ち続けていました。
時には、私はゆっくりとその道を坑口とは反対側に歩いて事務所前の広場にいきます。事務所の手前にある小さな空き地には、以前母が飼っていた鳩小屋が残っていました。母は鶏の他に一時、鳩も沢山飼っていました。黒いコールタールを塗った鳩舎は、梯子を掛けなければ届かない高さで、私は時々そっと上って巣の中の親子の鳩を見ては驚いた鳩に飛び出されて吃驚していましたが、ある日、母が巣箱の中に手を入れた途端に蛇が出てきたので、それからは、鳩は飼わなくなり、鳩舎だけが残りました。あの頃の台湾の山野には、実に蛇が多かったのです。その時の蛇は多分巣箱の中の卵か子鳩を狙って入ったのでしょう。山には実に沢山の蛇が居ました。事務所の周りや事務所前の広場を支える石垣、石段の側の石垣などの隙間に入り込んでいるのです。
母がまだは鳩を飼っていた頃のある台風の夜、突然鳩舎の鳩達がばたばたと飛び出していきました。どうした事かと職員までも総出で雨具に身を固め、懐中電灯で石垣を照らしたら、鳩が全部、石垣の隙間に一羽ずつ、入り込んでいました。突然蛇が鳩舎を襲い、蛇に銜えられたのか、鳩達が一斉に逃げ出したのか、幼い少女の心に何時までも残っている恐ろしい出来事でした。
父は村の住人の為に購買部と言うのをも設置していて、それは職員の福利にも成っていました。購買部は、常に米や豆などの穀物類から生活用品までが販売していて、一々山を降らなくても良いので、人達に重宝されても居たようです。
母がまだ大きな鳩舎一杯に鳩を飼って居た頃、私はいつもその購買部の大豆を四角い一升枡?に入れてもらい、事務所前の広場で青空に向かって勢い良く撒きます。豆が大きな円を描くように広がり地上に落ちてくると、何時何処で見ていたのか、すぐに鳩達がさっと降りてきてクルッ、クルッと声を出しながら忙しく豆を啄ばみ始めていました。それが楽しくて、私は毎日のように鳩とそうして遊んでいましたが、購買部が職員達の福利だとは知らず、鳩と遊びたくて貰った一升の豆の代金はどう成っていたのか、払った事も、考える事もなかった私でした。
鳩舎を過ぎて事務所前の広場に出ると、私は広場の正面の石垣のところに立ち、低い石垣から真正面にこの山あいの入り口あたりの景色を眺めます。
事務所前の広場は、暑い夏の夜の涼みの場所であり、住人達の憩いの場でもありました。其処には酒はなくても、月の明るい夜、満天の星の夜などには、誰かが持ち出した胡弓の音が静かに広がり、深い空の奥に上っていくのを、各自が石垣の上に座って団扇を使いながらその曲に聞き入ったり、穏やかに話したりしていました。振山実業社の人達は、皆仲が良かったのです。涼しい山間の小村に、嫋嫋と流れる胡弓の音、今思い返せば、それはまるで仙境のような夏の夜でした。
私の母方の二番目の弟麗卿叔父も、日本大学の法学系を卒業すると、すぐ父の仕事に入ってきました。此の叔父は父と気があっていて、父の片腕となり、後年、父が白色恐怖で冤獄に入っていた時には母のよき相談相手と成ってくれていました。父を大変尊敬し、父と同じく常に台湾の事を思ってやまなかった叔父は、留学中に内地人の叔母と結婚しましたが、その前に、「将来は台湾の土になります」と言う誓約のような手紙を彼女の舅になる祖父に出させたそうです。前述の、金塊を政府に納めるための命がけの運送も、此の叔父が腹巻のようにして体に巻きつけて行っていました。これは、絶対に信用のある人にでないと任せらません。ちなみに、振山実業社の金塊は、金含有量が完璧で殆ど100%に近く、純金とも言えたので、何処でも珍重、歓迎されていたのです。その延べ棒は、一センチ近くの厚さがあり、力の強い人が折ったら少し撓う程の金の純度でした。
この叔父一家もその長男が進学するまで大祖坑に住んでいましたので、夏休みに戻った私はいつも従弟や彼の大祖坑での友達、後には私の上の弟も入れて遊んでいました。彼等男の子達の遊びは、金鉱山の子供らしく、家から持ち出した「三宝掘仔」で、そこらあたりの山道の傍を、自分達も金を掘るのだと金鉱の真似をして道端を掘るのでした。私も付いて行くのですが、この遊びはそのうちに女の子は駄目だと言う事に成って、のけ者にされてしまい、私は道端の草や花を尋ねて一人で歩いていました。通りがかりの人が、葉の割れ目の数で今年の台風の数が幾つかがわかると教えてくれた台風草、真っ赤な蛇イチゴ。これは食べられると言われたけど食べる勇気がありませんでした。でも結構冒険好きで、台所の大きな水甕に何時も筧から綺麗な冷たい水が入って来ているのは、一体何処から来ているのかを知りたくて、長い太い孟宗竹をくりぬいて繋いでいる竹筒をずっと伝わって裏山に入ったけれど、道に迷いそうに成って急いで帰ってきたこともありました。台風の翌朝に、宿舎の後ろの崖と家の間の狭い隙間に、鷲の子が一羽落ちていた事もあり、可哀想に。と家の中に入れようとした私は却って怖がってもがく鷲の爪に傷つけられました。雨が降り続いた日の遊びは、煉瓦の半分ほどの大きさの銀塊。銀は金を取る時の副産物なのか、製錬に使われていたのか、縁の下に幾つも造作なく転がっていたので、私と弟はそれを積み木代わりにして遊んでいました。あの銀塊はその後どうなったのやら。
それから、それからと、思い出の尽きない大祖坑。
そこは、父の発祥の地であったのです。
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