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I.  劉明先生(孫達への伝言)
2. 留学 結婚 事業計画
 
父の述懐では、
生涯の大部分を実業方面に過ごした父の元来の希望は、実は医学に進む事だったのだそうです。その頃の台湾では、台湾人が内地人から尊敬されるのは医者と弁護士だけだったと聞いていますが、父は、すぐ上の兄劉伝来が、優れた眼科医として尊敬されているのを見ても居たので、優秀な成績で長榮中学を卒業すると、当然のように医学校を受験、こちらも良い成績で容易く第一次の学科試験を通過しました。残るのは口頭試問だけです。これにも絶対的に自信を持っていた父はその前夜、友人達と前祝いをし、酔いつぶれた挙句、なんと、翌、試験当日に寝過ごして遅刻してしまったのです。
当然医学校は絶望。
切歯扼腕、とはこの事を言うのでしょう。
それで日本留学に踏み切ったのだと思いますが、なぜ医学志望が東京で、蔵前高等工業学校(現在の東京工業大学)になったのか、後にその頃の学友に台湾南部の方々が多かったところから見て、同郷の誘いだったのかとも思われます。
在学中、東京での父には、すぐに多くの友達が出来ました。
実は父は台湾を出る前に、キリスト教の設立した長榮中学在学中に、教師でもある外人宣教師から抗日思想を植えつけられていたのでしたが、もともと、田舎での諸々を目にして、悔しく思っていた彼、内地での望郷の念がそれを募らせて、放課後に彼等台湾人学生の話すのは、いつもそのことだったのでしょう。父は、下宿の小母さんにも可愛がられ、小母さんは父を「坊や」と呼んでいたそうですが、ある日、下宿で南京虫が発見された時、小母さんが「南京虫!」と言うと父はすぐさま「ああそう、あれを我々は東京虫というんだ」と反発したそうです。いたずら心もあったのでしょうが、父の台湾への思いは、その小母さんの軽い言葉をも聞き捨てにはなれなかったのでしょう。余談になりますが、後日、戦後初の台湾商業代表として父が東京に行った時に、まだ復興していなかった焼け野原の東京で、父は苦労してその小母さんの家族を探しだし、彼女等は父の姿を見てとても喜んでくださったそうです。
父の留学当時のその下宿は、狭い路地の中にある二階建てで、父の部屋はその二階の路地に面していましたので、狭い路地を挟んでの開け放した窓から時々、向かいの家でもなにやら声高に話しているのが聞こえて来ます。それを、両方共相手方を韓国人と思っていたので最初はあまり付き合いが無かったのですが、有る時、はっきり聞くと、なんと話しているのは台湾語でした。
と言うわけで、その二組のグループもすぐに仲のいい友達になりました。
それが、私の父母の仲をとりなす縁となったのです。
父が始めて母を見たのは、その新しい友人陳作忠様の結婚に参加した時でした。丁度帰省していて、お祝いに参加した留学生仲間達が花嫁を見に集まっている時、有る友人が「花嫁の妹もとても綺麗だよ」と言いだし、皆がそちらに行くと、噂に違わずの美人。皆感嘆し、口々に褒めそやしていました。しかし、青年劉明君だけは、褒め言葉ばかりか感動した様子も無く黙っていて、まるで興味が無さそう。ところが、さにあらず、不審に思っている友達をよそ目に、その結婚式が終わると、すぐに父の実家、嘉義の劉家から、母の実家に仲人が使わされたのでした。
当時の母は、数え年の22歳。その数年前に成立した台中州立彰化女子高等女学校の第一期生として卒業、続いて当校の講習科を経て公学校の教師、訓導の資格を得、母校の和美公学校で教鞭を取っていました。
母の育った「和美」と言う所は、遠くオランダ時代に台湾の物産を輸出する港として開発され、その後対岸の中国との貿易でも賑わった港町「鹿港」に近い静かな町で、鹿港から移ってきた祖父林清輝はその町外れに居を構えて医者を開業していました。
オランダに開発された鹿港は、その頃の台湾では最も近代な町の一つで、「一府二鹿三萬華」(註一)と言われて居るほどに栄えて居り、当然のことにオランダからの西洋医学も入って居ました。鹿港人の祖父は其処で西洋医学を学び、一般の漢方医では無く和蘭(オランダの漢字名)の医師、蘭医(日本で言う蘭方医)でした。ちなみに、私の子供時代、夏休みなどに遊びに行くと、なにやら治療器具の入った器が室内にあり、屋根裏には亡き祖父の使ったと言う注射器などの治療器具がしまわれていると聞かされていました。
ハムサムな紳士だった祖父には患者も多く、和美の町に往診に行くのに、一般の漢方医は駕籠で行くのを、彼は時には馬で行き、往診道具を持った若者を従えた、その颯爽たる乗馬姿を町の女性達は争って見に出、中には表に出るのを遠慮して深窓に篭っている寡婦までが、纏足の足でよたよたしながらも、垣間見に出て来ていたそうです。
祖母は清国時代の文官「文秀才」の長女として生まれ育ち、当時の文官の娘の教養としての詩文に秀で、美しく、淑徳の名の高い方でした。夫妻共教育熱心でしたので、田舎に居ながら、母の兄弟姉妹達が揃って日本時代の高等教育を受けていたのは当然のことだったのでしょう。
次女である母は、まじめで勉強好きな長姉と違って、女学生の頃はよく学び、よく遊び、美味しいおやつも大好き、テニスらしい服装でもないのに、片手にラケットを持った立ち姿の古い写真もあって、つまりお洒落さんでも有ったのです。
朗らかで活発な女の子で、外で田舎道を友達と走ったりして、服を汚して帰ることもあり、そのような時には、母親に知られないように、さっぱりと着替えてもらってから、初めて母親の前に出ていたと言うそうですから、祖母の「文秀才の娘」と言う襟持と家庭教育の有様が偲ばれます。
着替えの世話をしてくれるのは、実は祖父のお妾さんでした。鹿港は前述の通り、景気の良い町でしたので芸者屋もあり、祖父も和美に住んでいながらも芸者を一人身請けして家の敷地内に住まわせていました。あの頃の花柳界には客に仕えるのに二通りの者があり、高官などに仕えるのは主人の詩作の相手も出来、楽器も多少は嗜め、画も一通り出きる。つまり「琴棋詩画」の素養を持って居なければならず、そんな人が始めて「芸旦」といわれるのです。祖父が家に入れたのはその様な人だったので、別棟に住んでいても一家の主婦である祖母には礼を尽くし、自分の子は持たずに本妻の子供等の世話や、時には指人形などを縫って子供達と遊んだりもして、家族に慕われていたそうです。それで母も汚した服を始末してもらった事があったのでしょう。
ちなみに、その彼女は間もなく短命な一生を終えましたが、後日その墓が政府の道路計画内に入り、移動せねばならなくなった際に棺の中から、当時にしては珍しい高価な化粧品が見つかったと言う事です。多分祖父が彼女を哀れんで、わざわざ日本内地から取り寄せて入れたのではないかと、母の兄弟達が話していました。彼女はきっと祖父の寵愛を充分に受けていたのでしょう。
 
仲人を遣わした劉家の祖父は、その頃既に経済的にも余裕があり、人望もありました。その劉闊の日本留学の息子と、その頃には珍しかった女学校卒で、しかも公学校の教師(訓導)をしている美人。と言う取り合わせには、親同士に異論は無く、この縁談が纏まるのに時間は掛からなかったと思います。
しかし、問題は持ち上がりました。
当時、もともと台湾人教師は数少ない上に、女性教師で、しかも母は生徒に好かれ、殊に貧しい生徒には、そっと小遣い銭を上げるという優しさに加えて、金持ちで町の有力者である生徒の父親の、成績の足らない子を是非とも級長にしてくれ、と言う圧力にもめげない強さをも持っていたのと、何よりもその品格ある美しさが街中の評判で、皆から好かれていました。美人コンテスト等と言う事の無かった時代ですが、彰化三美人の一と言われていたそうです。その美しい林翠鑾先生が嘉義に連れ去られる。と言う話は瞬く間に街中に知れ渡り、若者達の間に大反対の声が上がりました。
すぐに此の縁談を阻止する計画が立てられました。聞く所によると、実はその町の有力者が息子の嫁にと望んでいたのだとか。とにかく、和美にも立派な青年が居ないのではないのに、と言うわけです。
当時、和美から嘉義までの交通は、和美から彰化駅まで徒歩、又は駕籠で行き、そこから嘉義行きの汽車に乗ります。その他には交通機関は無かった時代です。それで、当日、彰化駅に向かう花嫁の美しい塗り駕籠(新娘轎)を、途中で略奪するというのです。広い田畑の中の田舎道ですから、それは難しいことではなかったでしょう。
しかし、花嫁は無事でした。
父はなんと、嘉義から自動車で直接和美まで行ったのです。和美での不穏な計画を知ってか、知らでか、東京に留学中の花婿は、駕籠に揺られて賑々しく行くのを止して、近代的な結婚の形式を取りました。その頃、まだまだ自動車(ハイヤーといわれていた)と言う交通機関は、田舎では珍しく、おそらく、まだ見たことの無い人もいたでしょう。嘉義から和美までの道を自動車が通ったのは前代未聞。父のこの壮挙が初めてだったのです。それが母の実家の旧式な屋敷の前に止まったのですから、それには皆驚いた事でしょう。
結婚式は滞りなく上げられ、美しい花嫁は嘉義の皆から歓迎されましたが、母にとっては、大変な生活の変化でした。
先ず、最初に家族と食事をした日のこと。花嫁は新婚の三日間は自室から出ない。という古来のしきたりを終えて、初めて家族と食事を共にした時、母が食べ終えて箸を置くと、そばに立っていた花嫁付の女性が、さっとその空の御飯茶碗に少しご飯を入れました。ご飯は食べ残さずに綺麗に食べ終えるものと言う生活をしてきた母は、急いでその少しのご飯を食べ終えて箸をおきます。すると又すぐ少しのご飯が碗に足され、とうとうその付添さんが、そっと母の耳元に「御飯茶碗を空にしてはいけないのですよ」と囁いて終わったのでした。つまり、ご飯茶碗を空にするのは、中に食べ物が無くなる。即ち貧乏になる。というジンクスから、新婦の最初の食事では必ず茶碗の中に少しご飯を残さねば成らないのでした。そういった習慣があることを知らなかった、高等女学校卒業の花嫁は、お目見えの第一日に、姑も入った家族全体の女性郡の中で、間違いをしてしまったのです。
街の商店街に大きく店を構えている劉家の家は,賑やかな物音の絶えない所にありました。街路に面した幅広い店構えの中を通って、縦に伸びた家の奥に入ると石畳を敷き詰めた中庭があり、祖父母の部屋が其処にありました。その脇の細い廊下を更に進んでいくと、同じく石畳の中庭が広がって、その中庭をぐるりと囲んだ二階建ての大きな家に、劉家の長兄再生伯父一家、二兄の伝能伯父一家、次女で未亡人の伯母の親娘、その上の大伯母の遺児達、身を寄せている親戚の親子。と言う大家族が住んでいました。すでに道路からは奥深く入っていて、町の喧騒はここまでは届かないのですが、昔の家庭には子供が多く、母が嫁いだ頃には、既に各家庭とも子宝が恵まれていて、幼子から学童までのやんちゃ盛りがいつも何処かで走り回ったり、泣いて居たりと動き回っていました。それらを世話するお手伝いさん達、家族ばかりのでは無く、店の番頭さんから若い衆までの食事を用意する年季の入った、「台所の主」のような炊事婦。当時の、大家族が一つ屋根の下に暮らすと言った家庭には、必ずこの中年女性のような人物が居たようですが、彼女は、三度の食事も男性群が先に終えてから女性達が食卓に着くという、封建的な家庭の空気、家中の人の癖までも知り尽くした古強者で、皆が一目を置いていたそうです。三番目の伯父は道路を隔てたお向かいで眼科医を開業していて別に住んでおり、その妻の伯母は台北の第三高女を卒業していて母とは仲がよく、お互いを尊敬しあっていましたが、道路を挟んで真向かいの二階建ての洋館からこちらに来る事は少なく、会う機会は少なかったようです。
父は、結婚後間もなく学業を続ける為に東京に戻りましたが、母は連れて行っては貰えませんでした。父は、自分が日本内地へ留学したために親に孝行する時間が少なかったので、母に暫く嘉義に止まり、彼に代わって両親に孝行をしてもらいたかったのです。
劉家の家族の女性達は母に一目を置いていたようで、殊に祖父母はとても母を可愛がっていたそうですが、皆嘉義出身、と言うよりも公田と言う山奥で生活してきた人たちで、公田の頃からの幼馴染でもあって、お互いに気心も知れ、生活習慣も一緒だった彼女達。その中に、田園風景の静かな、単純な、文筆をたしなむ生活の中から連れてこられ、すぐに一人置かれてしまった母は、環境に慣れるのに時間が掛かったのではないでしょうか。母は、父の留守中に、体が弱って病気がちに成って行きました。
しかし、それは長くなく、父は次の帰省で母を一緒に東京に行ったのです。東京に出発する前に父は一度母と和美の実家に、挨拶に行きました。その時に父は、彼の留守中に眼科医の伯父が母に調合してくれた薬の袋を全部持って行ったそうで、母は父の用意周到な事に驚いたそうです。
母が驚いた事は更にありました。
 その頃、東京での父は小さな家を一軒借りて住んでいたのですが、その家に入ると、なんと、始終友達が出入りしていて賑やかな事。壁に掛かっている外套には、ほころびを縫った所もあり、くたびれている感じ。聞くと、それは父の外套で、冬の寒い日とか、誰かが就職の面接とかの特別な事のある時に着ていく、つまり皆で共用している一張羅のオーバーコートでした。友達が困っていると手を伸ばさずにはいられない父の性分は、ここでも変わらず、父は嘉義から送ってくる一人分の生活費を皆で使っていたのでした。
そのうちに出入りしている台湾留学生はだんだん多くなり、費用も嵩んで、困った父は、皆と相談して、夜、屋台を引いて支那蕎麦を売ろうと決めました。しかし、何も特徴の無い蕎麦では売れそうにもありません。それで思いついたのが干し筍。嘉義の祖父の店の山産物の中でも、山奥の祖父の地所から採れた若い筍での干し筍は柔らかくて美味しいので好評です。それは日本内地ではまだ売られていませんし、その食べ方を知っている内地人は居なかったでしょう。それを台湾から送ってもらい、細く切って軟らかく煮たのを蕎麦丼に足しいれてみました。是が大好評で、夜中の町を、屋台を押して行く留学生の特製蕎麦は商売繁盛。やっと資金にも困らなくなったとか。現在支那蕎麦に「メンマ」として入っている干し筍は、実は父達がこの時始めて日本に入れた、台湾の干し筍なのです。
この頃の父の友人達との交友は、その後各々が学業を終えて台湾に戻ってからも続き、後に父の事業体に入ったりして居て、皆親しく、意気投合して実の兄弟のようにしていた方までも居ましたが、常に台湾の事を心配する彼らでしたので、中にはその人の為に父が苦難の後半生を送らねばならなかった方も入っていました。
そういった生活の中で、病弱だった母も健康を取り戻し、遂に子供が出来ました。そして迎えた、異国の地での臨月では、早期破水とも知らずにいたのを、中年のお手伝さんが見つけて、すぐさま東大医学院の産婦人科に入院。其処で長女の私が生まれたのです。
1928年の2月も終りに近い頃、父が蔵前高校(現在の東京工業大学)の応用科学科を卒業して帰台した年でした。
その時の父には、既に将来の計画が有りました。南洋の豊富な椰子の実に目をつけ、それで応用科学の知識を生かして、石鹸工場を作るのです。
先に南洋に行って一応落ち着いてから妻子を呼び寄せる為、その間の私達母子の生活費にと父が思いついたのは、母に薬局を開業させる事でした。当時は薬剤師の免許状一枚で、本人が不在でも店を経営できていたので、それで私達母娘が、本家に頼らずに、安心して生活できるのです。父はすぐにあらゆる本を取り寄せて猛勉強を始め、間もなく規則書を提出、速やかに薬剤師の免許を取る事に成功しましたが、その驚異的な速度は皆を驚かせたそうです。
しかし、これも実行には移されませんでした。
その頃の祖父の店「金振山商行」は、眼科医の伯父の「振山眼科医院」と共に、嘉義市内でも有名に成っていましたので、「金振山商行」には常に出入りの人が絶えず、その中にはいろいろな投資を誘うペテン師も居ました。
そのペテン師が、当主の再生伯父に金鉱の話を持ちかけたのです。その偽りを信じて、多額な採掘権で取得したまでは良いけれど、肝心のその山に行ってみれば其処は、もぬけの殻でした。鉱山の事に疎い再生伯父は、商人が道辺にちらほらと撒いた光るものを金塊だと言われて信じてしまったのでした。
多額の採掘権を払って獲得した空っぽの金山。でも誰かが其処で駐屯せねばなりません。その時、丁度良く留学を終えて帰国した末弟。
当時の大家族の中では、長兄の言葉は絶対命令です。
「折角高い金を払って取得した採掘権が残っているから、暫く其処を守っていなさい」
と言う命令一下、父の、南洋での石鹸夢は文字通りに泡と消え、父は「大粗坑」と言う廃坑を守りに山を登って行きました。
(註一)
「一府二鹿三萬華」 
当時の都市名
  「府」は官庁(政府)の所在地の事。現在の台南市。首府としての誇りは現代の住人の気質に残されている。 
「鹿」は現在の鹿港 外国との交通が頻繁な当時にとっての貿易都市。西欧の文化が輸入されていた当時の文化都市。
「萬華」は台湾から欧州、主に英国に向けての茶の輸出で栄えた大都市。幾つかの当時の建物が現在も残っていて当時の繁栄を偲ばせてくれている。
 
一,二,三、の番号は当時の繁栄の順序だと思われる。
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