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II.  我が家の終戦
 
原住民の憂い
 
終戦間もなく、中国の軍隊がまだ台湾に接収に来ていなかった時の事です。私達は、まだ疎開先の新店に住んでいました。
ある日、二.三十人は居たでしようか、中央山脈の原住民のリーダー達(その頃はまだ頭目と言っていました)が父を尋ねてきました。女性も居て、殆どが顔に刺青をしており、彼等の民族衣装を纏って、はだしで阿理山の付近から出発し、中央山脈を縦断、台北県(日本時代の台北州)の文山の近くから山を降りて、新店に入ってきたというのでした。父は嘉義の出身で、祖父が阿里山付近の原住民族の人々を可愛がっていたことで有名でしたので、その縁故で彼等がはるばると父を尋ねてきたのでしょう。
そんな大変な旅をしてきたのに、彼らは全然疲れた様子も無く、父を見詰める目には必死の思いがこもっているように見えました。
「自分達は、言葉を習うのが下手だが、やっと今では、日本語が話せ、日本の生活様式も理解し、慣れてきたのに、今度はシナが来るそう。シナ語は聞いた事も無いし、大変習いにくいと聞いているし、今後我々はどうなるのだろう、どうすればよいのだろう。」
と言う事を聞きに、皆で父を尋ねて来たのでした。父が彼等とどう話したのか、台所の方の手伝いに忙しく、その場では聞きませんでしたが、父はきっと安心するようにと彼等に言ったのでしょう。その時点に於いては、父自身も中国人の悪辣を知ってはいませんでしたから。
まだ食料等の物資にゆとりの無かった時代でしたが、母は使用人達を動員して、急いで台湾餅、在来米を臼で挽いて、ラードで炒めた大根と豚肉を入れて蒸した、所謂大根餅です。それを、二尺四方の大きい蒸篭に幾つも作り、鶏を何羽も料理し、その頃基隆に、福建あたりからの船で売りに来ていた、尺余の高さの大甕の酒を幾つも開けてご馳走しました。結婚後、日本に留学していた父の所に行く前の間、母も嘉義の祖父母の所に居ましたので、母も原住民の方たちの生活を垣間見る時があり、彼らがお酒好きだと知っていました。彼等は喜んで、胡坐をかいたり、しゃがんだりと、好き好きな姿勢で餅を食べ、ご飯茶碗で酒を飲み、暫く家の離れで休んで、午後戻って行きました。純真な彼等の、時勢に流されるのを心配する気持ちが私にも良くわかり、今でも心に残っている思い出です。
あのリーダー達は、山に帰って行って、その後どうなっているのか、蒋介石の軍隊とどういう接触の仕方をしたのか、幸せにしているであろうか。実家のその後の悲惨な出来事にかまけて、消息を聞くことも無く過ごしてきましたが、歳の所為か、今になって時々思い出されます。それと、あの日、一九四五年八月十五日の事。
 
終戦の詔勅
 
一九四五年八月十五日は、終戦の詔勅が下されて、世界に平和が訪れたかに見えた日です。
その頃の台湾では、戦局がますます悪化し、B29や米国の艦載機(グラマン機?)の台北市内への空襲も頻繁になって、お上から人々の郊外への疎開が薦められ、台湾人地区の萬華では、区別に集められた住民を南部に一団一団と強制疎開をさせるまでになって居ました。鉄道の大方を軍部に徴収されていたので、民間物資の運送が困難になり、南部では運送待ちの野菜類が庭先に詰まれて腐敗し悪臭を放っていると言うのに、台北市内では近郊のお百姓さんが作った、エン菜と言う、一番安く一番栽培しやすい葉野菜までも、空襲の合間を縫ってリヤカーで町に入ると、何歩も歩かない中に争って買い去られると言う始末。町の住人の衣類と農家の食物との交換も盛んに行われていました。疎開して無人になった太平町の、道路に面した三階建ての、当時では一番豪華な建物と、家鴨一羽とを取り替えてくれと言うのに、レンガ造り三階建ての洋館でも、明日の空襲で瓦礫の山なってしまうかもしれないが、家鴨はすぐ食材になって腹に入れることが出来る。と、お百姓さんに断られた。という話までもありました。
私の実家では、その頃父が新店にも炭鉱を経営していましたので、内地人の、ある大会社の社長さんの新店にある別荘を買い受け、その家に付随している、少し小規模の家屋二棟には母方の叔父の家族も誘い入れて、一緒に其処に疎開していました。叔父は東京に留学していた頃から時事に熱心でしたので、その頃はよく父と新聞を読んでは話し込んでいました。叔父が「新聞は裏を見るものだ」と言っていたのが、私には何のことか理解できなかったのですが、父と叔父とは、当時の報道で隠されていた本当の戦局を予測していたのだと思います。
そんなある日、まだ日が高かったのに、いつもは夕飯後に来る叔父が、慌しく私達の家に来て、「早くお父さんを呼び返しなさい。」と緊張した面持ち。「どうも、いよいよ日本が負けるらしい。後で天皇陛下の放送があるらしい」というのです。えっ?!と私も飛び上がりました。父がこの日の来るのを確信していた事を、うすうす察していたのです。その時父は新店渓の私の家からは対岸の所に、魚釣りに行っていました。私は脱兎の如く家を飛び出し、一目散に新店渓の堤防の上に駆け上りました。私の登っていった地点からは、父のいつもの釣り場はちょうど対岸ですが、行くには河岸を遡って新店の大橋を渡り、そこから川下に向かって、街はずれの、むしろ次の街に近い今の場所の対岸まで戻って来らねばなりません。
一刻も早く父に知らせねばならない。放送を聴きそびれる。そう思った私は、とつさに決心してそのまま堤防を駆け下りました。岸辺まで歩いて、みると其処は浅瀬に成っていて、川の中の所々に岩が頭を出しています。
ここが一番の近道。と決めると、私はそこから川に歩き込みました。日頃、水が怖くて泳ぎはおろか、浮くことも出来なかった私ですが、今はそんな事を考えている場合では有りません。流れる水は私の腿の中ほどに届く深さで、よく澄んでいて川底まではっきり見えました。重なり合った丸い川石の表面には緑の水苔が生え、うっかりすると滑ります。時々流れる水に乗って小さな魚が泳いで来て、ふくらはぎに触れて行きます。突然の侵入者に驚いた岩陰の小魚が、あわてて私の足の周りにぶっつかったりするので、その度に水蛇かと、恐しさによろけそうに成るのを、歯を食いしばって、注意深く一歩一歩と水の中を歩きました。途中で顔を上げて上流遥かに見えるあの全長200メートルの新店大橋を眺めては、やっぱりあそこから行くべきだったかな。と思ったりもしましたが、半分まで渡った今、引き返すことも出来ません。その少し上流に堰があって、水が堰き止められていた所為か、ちょうど其処の水は深くもなく、急流でもなかったのが良かったのでしょう。頭を水の上に出している大石に掴まったり、何度も水の中に転びそうになりながらも、とうとう、泳げない私が一人で新店渓を渡りとげました。今思い返せば、支え棒も持たず、多分両手で平均を保って、時には石につかまり、足を踏みしめながら渡って行ったのでしょう。怖くも無く、転んで溺れるという事も念頭に無く、唯、こんなに大事な事を、父に早く知らせねば、と言う一心だけでした。
岸辺は一面のススキの原。背丈近くまで伸びたススキの中に向かって、すぐに大きな声で父を呼ぶと、草むらの向こうから返事が返ってきて、父も、一緒に居た弟も立ち上がっていました。
知らせを聞いた父は、すぐさま釣り具を片付け、魚釣りが大好きな父でしたが、その時、川に向かって「もう釣りをする事は無いだろう。これからは台湾の為に働かねばならない」と言ったそうです。
玉音放送の始まる時刻には、叔父は勿論、家族全員がラジオのある部屋に集まっていました。君が代が吹奏され、反射的に正座した私。一生懸命に耳を傾けたのでしたが。お声はくぐもって、内容ははっきり聞き取れません。でもその直後にアナウンサーの説明があったのでしようか。叔父がすぐ、負けたのだ。と言いました。皆は、呆然として暫く黙っていたようです。乳母に逃げられた乳飲み子の妹を抱いて、私もただ茫然と成り行きを見ているだけでした。
 
台湾の為
 
翌日から、父の活動が始まりました。まず父は、私も連れて台北市に向かいました。新店―台北間にはバスが通じていて、当時は煙突の付いた木炭バスが走っていましたので、あの日私達がバスに乗っていたら、その日の一般の人々の表情が見られたのですが私達は自分の炭鉱のトラックで行きました。
台北市内はもぬけの殻、ほとんど無人の街と言っていいでしょう。疎開で市民が居なくなったのか、昨日の放送で、どうなるかと皆息を潜めて外へは出ないようにしているのか、ひっそりと静まった街中を、私達は太平町で開業している陳逸松弁護士の家に向かいました。東大出身の陳弁護士は父と仲が良く、話が合っていました。二人は奥の部屋で、台湾の将来について、長いこと熱心に話していました。大人の邪魔をしてはいけないと言う日頃の母の躾で、私は別の部屋で待っていて、その談話の内容を聞きそびれた事は、今となっては大変残念なことでした。奥様もまだ疎開先なのか、いらっしゃらなく、そのお昼には、道端の屋台で簡単な蕎麦で済ませましたが、誰も居ない空の町に、どうして屋台蕎麦があったのか、今でも不思議に思っています。
 
父の動き
 
日本の軍警が武装解除された後の、台湾の治安を心配したのでしよう。父は間を置かずに、台湾人地区の萬華に出向きました。遊び人のリーダー達と相談をして、彼等に町の治安をさせる事にしたのです。「もうこれからは植民地の二級国民ではない。堂々とした、本当の国民なのだ。若い人が博打をしたりしている場合ではない。自尊心を持つように。」と諭し、意気に感じるのが早く、義に感ずるリーダー達の賛成の下に「義勇糾察隊」と言う名の隊伍を作りました。多分七十名前後だったでしょう。父は彼等の報酬を決め、全員に制服をも作ってあげました。あの無政府状態だった時期、彼らの働きは十分に功を奏していました。あの頃の人達には、まだ「義」の精神があったのです。終戦間もなく中国との交通が始まった頃、台湾各地で子供が攫われる事件がしばしば起きていました。其の頃の巷間の話に、或る、必死で我が子を探している母親の夢枕に立って、その子が、何時何時に駅に来たら会える。と言ったので、母親が行って探したが見つからず、ふと傍を通った人の背に眠っている幼児を見ると、その足に履いた靴が我が子の靴に似ている。と言うので調べた所、それは間違いなく其の迷子の遺骸で、その腹にアヘンが詰められて何処かへ運ばれる所だった。と言う話がありました。そのようなある日、「義勇糾察隊」の所に、基隆の波止場に人買い船が泊まっていて、出航直前だという知らせが入りました。急遽その方に向かった「義勇糾察隊」の隊員がその船内を隈なく捜したが何も見つからず、危うく争いに成る所、或る隊員の機知でこじ開けた船底に、十数人の半死半生の若い娘が閉じ込められているのが見つかった。と言うことが有りました。
後にこの「義勇糾察隊」の業績と名を利用して、国民党でも父の作ったのと同じ名前の「糾察隊」と言うのを作りましたが、それは実に世間を失望させる団体で、国民党のスパイのようなこともやったり、していましたが、同じ名前だったばかりに、一時期父も有る一部の人々から誤解を招いたことがありました。
あの原住民達と前後して、ある日本の中年の方も見えました。東海岸から、この方も山を越えての訪問だったらしく、リュックサックを背に、短袖のシャツ、脚伴、ヅックの運動靴と言う服装のその方は、敗戦に拠って日本人が迫害されないかを心配していました。父が大丈夫。決してそんなことはさせない。と言っていたのを覚えています。
家庭内では、父は間もなく北京語の教師を連れてきて、家族ばかりか、職員達も入れて、言葉の学習をさせました。十畳の部屋が一杯になるほどの人数の、おやつの準備、教師へのお礼などに母はいつも気をそがれ、「忘れさえしなかったら、私だって良く出来るのよ」とこぼしていたのが皆の笑の種になっていました。私が日本語の五十音と同じような北京語の発音記号を知っているのは、その時に習ったのです。
 
一万人の子供
 
更に父は、予てからの念願の「大学を建てる」と言う事を始めました。
その頃は避妊する者も無く、私の周りには多産系の女性達が多くて、七人、八人の子持ちは珍しくない中で、母だけが少子でしたので、父がよく「自分は一万人の子供を作る」と言っていたのが、私には不可解だったのでしたが、実は学校を建てて、より多くの教育を台湾の若者に上げたい。ということでした。父は若かりし頃から教育に熱心で、金瓜石の近くの九份の裏あたりに金鉱を経営していた頃には、其処に二教室だけの分校を創り、教師を招いて、山の上の一年生から四年生までの児童が勉強しやすい様にしたことも有り、台北市内でも、女子中学校の教室を増やしたりしていました。ある職業学校に、ぐれる学生が多く、教師達が父に相談に来た時、父は全校の生徒を集めて、頭を坊主刈りにさせてしまいました。不思議なことに、生徒達は父の言うことを聞いて、全校丸坊主になり、その後、校風がずっと良くなったと言う逸話もあります。
当時の台湾には大学は台北帝国大学(国立台湾大学)の一校だけで、学徒にとって、殊に中南部の人達には交通、経済等の不便もあって大変な狭き門でも有りました。一方で、終戦と同時に、日本から東大卒を始めとする若い学問の精鋭達が、今こそ台湾の為に尽くす時と、中には良い職をなげうってまでして帰国して来ていました。しかし、希望に胸を膨らませていた彼らを待っていたのは、日本政府の残していった職場の殆どが、蒋介石についてきた者共に(学のある無しに関わらず)占められ、台湾人に残された職場は極く下級の位置だけ。その上に、直前まで敗戦に敗戦を重ねさせられてきた日本国からの帰国者。とあっては、なかなか就職させてもらえない。と言う現実でした。
父は早速大学を建てる夢を実現し始めました。
終戦後の南北の交通は、中南部に疎開した人々の北部への戻りラッシュ、活気付いた商い、担ぎや、などなどで縦貫線は常に超満員。車内に入れなくて、走っている汽車の昇降口の取っ手に両手で掴まって乗って?いる光景も珍しくありませんでした。そんな中を父は東大出身の朱昭陽さんを連れ、小さい折り畳み椅子を携えて、南部に支持者を求めて出発しました。父曰く、「寄付金を入れる頭陀袋を持って。」 
乗客で身動きもできない程の車輌に乗り、時には徒歩で、一路、有名人、富豪、などを尋ね歩きましたが、暫くして戻ってきた「頭陀袋」は空でした。今でこそ雨後の竹の子のように、あちこちの財団が大学を作っていますが、あの頃、教育は誰にも振り向かれなかったのです。中には、師範学校と言う、教育者を育成する学校をでていながら「劉さん、今は金儲けの一番大事な時。大学なんて止しなさい」と父に献言した人も居ました。ちなみにその人は、後に国民党の最高官になり、大學も金儲けになる時代になると、早速学校を建てて金儲けをしています。
空っぽの「頭陀袋」で帰って来た父は、それなら。と自分の独力だけで大学を作ることに決めました。京町にあった父の事務所の二階を開校準備の事務室にし、「私立延平大学」との札を挙げて、日本帰りの若い青年学子達を集めました。経済、政府との交渉、諸々の困難を越えて、大部分の準備も成りましたが、次は校舎の問題です。父は、これも日本帰りで、父がお世話した学校の校長先生のご好意で、使われていない夜間の教室を借りることになり、とにかく夜間大学として発足したのです。
終戦直後で建物は整備されて居ず、雨漏りはする、雨の激しい時には、廊下に迄雨が振り込んで通路は水浸し、という校舎ですが、教師の陣営は錚錚足るもので、中には後に、台湾大学に招聘された方も多く、後に有名な作家になった方、政治の頂点に立たれた方もいらっしゃいました。
学生が集まるかと心配して、父は私をも延平大学に入れ、日本帰りの校長先生の御令嬢も入り、友人達にも話しかけてその子女達にも籍を入れてもらいましたので、一時は台北の有名人の子女達が、この新設の小さい学校の生徒の中に何人も入っていました。ちなみに、それ以前に父は台大と交渉をして、私のように専門学校が無くなってしまった者の、台大無試験入学の許可を得ていて、私の同窓の中には、それで立派な小児科医に成った方もいます。
しかし、学生の事を父が心配する事は無かったのです。噂を聞いて、全島からどしどしと集まってきた学生達。大方が既に社会人になっており、南部からの人達が多く、中には幼稚園の先生が職を辞して、台北に友達と合宿して通っている方もありました。その学生達は、決して裕福な家庭の子女ではなかったことは、所謂良い家庭に育った、世間知らずの私にも良くわかりました。学問に飢えていた、授業中のあの学生達の熱心な態度。目つき。本当に勉強をしたい人とは、こんな態度の人達なのだと、今まで呑気に勉強して居た私はその時、深い感銘を受けたのでした。
後年、ある当時の学生だった方が、「あの学校では、電球の一つが壊れても、皆 劉明さんの事だった」と述懐していたように、他所からの寄付は殆ど無く、経営の費用は全部父の手でまかなっていたと言えます。学校の経費を作るために、学校当局の皆で考案した「美術工芸社」と言う、美術的な彫刻を施した家具を製作する小さな会社も出来ましたが、「武家の商法」。効果はあまりよくなかったようです。
大学の事に奔走する父は、その一方で、世の中の事を心配していました。父は、戦前の日本時代にも総督府に出入りし、色々な相談に乗っても居たようで、戦後、日本に戻られて内閣の官房長官にまで登られた、塩見俊二先生の著書にもありますように、父は塩見先生と懇意にさせて頂き、戦後の日本人の事でもご相談を受けていました。戦後は、蒋介石率いる国民党の態度に心を痛め、時には議会の最中に演壇に上がって意見を言い、政府が台湾人の雇用を増やすべきだというような演説もしていました。この時点においても父はまだ中国国民党の、実態を知っていなかったものと思われます。しかし、その頃から、中国国民党は既に父に注目していたようです。
仕打ち
連合国から派遣されて台湾を接収に来た。とは言っても、それは表向きで、実は台湾を略奪に来た彼等に、台湾人の幸せを思う気持など、ひとかけらもありません。実際には、日本軍と戦いに敗れているのを、アメリカの参戦によって助けられ、次には中国共産党との内戦に追い詰められた敗残兵で有るのに、彼等は「台湾人は同胞である。自分達は台湾同胞を日本から助け出す為に八年間も日本に抗戦し続けた。」と言い、その年、中華民国政府が台北の公会堂(現在の中山堂)で日本の降服式典を行った十月二十五日を、台湾に再び光明が戻ってきた日である。と麗々しく光復節と名づけました。そして、その口の裏から、二.二.八事件、続いて白色テロ。と全島にかけての虐殺を続け、民衆を極端な恐怖で押さえつけていたのですす。
そんな中で、より多くの人達に学問を、と大学を作り、しかもその大学の教師が日本帰り、校内での言葉は日本語と台湾語。「義勇糾察隊」等と言った治安維持の団体を作る。議会では大声で意見を述べる。そして一番いけないのは、人心を摑み、リーダーシップを持っていると言う事。そんな父を腐敗しきった彼らが容認するわけが無く、父は間もなくでっち上げの罪名の下に捕らえられ、死一歩の手前まで。と言う酷い拷問の末、全財産の没収。市民権剥奪、十年の実刑を受けさせられたのでした。
我家の終戦物語です。 
                                 
2010年7月28日  記
後記 教育  
父が捕らわれの身になったあの頃は、本当に悲惨な台湾で、延平大学の学生や教師の中にも白色恐怖を免れ得なかった方が何人も居ました。
こうして、社会に有用な人間や、前途有望な若者をどしどし捕え、或いは銃殺に、或いは冤獄に送り込んで台湾人を抑圧したばかりでは済まず、同時に中国人達は、子供達のごく幼い年頃から、日本人を憎み、中国をあがめる思想教育を施し、それに力を入れました。
中国人の政治力と言うか、狡猾さは、武力による台湾占領と共に、教育にも向けられたのです。
台湾人の就職難だったあの恐怖時代、小学校の教師は殊に優遇され、多くの台湾人が小学校の教師になりました。その全員が国民党入りを要求されましたが、それに背いて、職場を失うと共にブラックリストに載せられてしまう勇敢な人は、恐らく非常に少なかったでしょう。
彼等は小学校の児童に、思想犯を大悪人だと教え、時には授業中に思想犯の子女を起立させて、公然と父親の名前を言わせ、「罪人の子だ」と辱めていました。その女の子は毎日友達にいじめられ、とうとう自閉症になったのです。
又、地理の学科で、彼等が子供等に一番初めに教えたのは、中国内の蒋介石や孫文の郷里の地理でした。それは必修で、為に其の頃の小学生達は、蒋介石の郷里の家の所在地は、復習をそばで聞いて居る私ですら諳んじられるほどに詳しくても、台湾の事は少しも知りませんでした。子供達は、随分大きくなるまで、台湾の地理的な位置、大きさ、各地の産物などを知らなかったようでした。又、台湾語を話した学生には、体罰が加えられ、罰金。皆の前で辱めを受けていました。こうして、台湾人が台湾語を話す事を恥と教えられ、台湾人が台湾人である事を否定した教育をされて育った子供等が成長した後は、皆自分が中国人だと信じ、彼等の絶対の信奉者、手足になるのです。
ちなみに、高校の教師の中には、中国から国民党に付いて逃げてきた者が多く、中には満足に北京語を話せず、北京と違う地方の方言だけしかしゃべれないのが、国語の教師となっていたり、学の無いのが高校の校長になっていたのもありました。
高校には軍から軍事教練が派遣され、教師や学生の品行ではなく、言動に目を配り、個別的に国民党への入党を勧誘もしていました。それを断る理由は絶無に近いもので、国民党に入れば、あらゆる便宜が図られ、卒業後の出国手続きにも特典が与えられると言う誘いも功を奏して、何も知らない学生。うすうす知ってはいても断る勇気の無い学生が、どんどん吸収されていきました。学業を終えて社会人になっても、政府機関はもとより、大会社などには必ず見張りの役人が、人事室に配置され、各自の思想が監督されていました。その報告が軍に直結していたのは、言わずもがなの事で、人々に大変恐れられていました。その為に、自らの身の安全を守るため、栄達を求める為にも、国民党に身を投じるのも少なくありませんでした。人間の弱い所です。
もともと、小学校の頃から、お前達は中国人であり、国民党がどんなに立派で、台湾の為にどんなに有り難い事をしてあげた。などの間違った歴史を頭に叩き込まれてしまった、次の年代の人達に、台湾の昔の事を私達の年代の人間が書かねば、国民党政権による事実の隠蔽で、台湾の真実の歴史は風化され、無くなってしまいます。
二十一世紀の現在では、共産党に戦敗して台湾に転がり込んできたくせに、(学生には、共産党は匪賊だと教えていました)その賊を討伐すると言う名目の下に、大量の台湾人を虐殺しておいて、最近では手の平を返して今度は中国共産党に擦り寄る国民党。それを利用して台湾を併呑しようとしている中国。台湾に加えられた新しい恐怖です。これ等の恐怖に台湾人が打ち勝つのは、並大抵ではありません。
しかし、よかった事に、台湾人には「家庭教育」と言うものが残っていました。それと、国外で得る真実の歴史。それらで事の真相を知った若者達の中に、現在では、徐々に台湾意識が広められ、台湾は自分達台湾人のものだと言う考え方の若者が今、増えつつあります。
私達は台湾が台湾人の国になる事を願い、台湾人に自分の国を、自分の故郷を返してもらいたいのです。
 
きっとその日は来ますでしょう。唯唯、其の日が一日も早く来る事を願うのみです。
2010年7月29日
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