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運命の日
武田会長様へ 二〇〇五年十一月五日
私達の家族にとっての、あの運命の日のことは、カサブタを剥いで傷口を開けるようなもので、あの日の事が鮮血の様に噴出すのが苦しく、書くのも辛くて書きたくなかったのですが、文字として残さねば成らないと、勇気を奮い起こしました。
一 夕食。
一九五十年四月二日の夜。私達は、普段食事をとっている台所脇の食堂でなく、来客用の十畳の大部屋で夕食の最中でした。祖父の誕生日祝いに故郷の嘉義に数日行っていた父母が、午後戻ってきたのを、その前の年に結婚していた私達夫婦が会いに行ったので、大部屋でのゆったりした食事にしたのです。少し蒸し暑かったので、父は白いシャツとステテコだけのリラックスした格好で、主人とビールを飲み交わし、二人とも顔を赤く火照らせていました。在席していたのは、父母と私達、高校在学中の大きい弟、幼稚園児の妹。小さい弟は、まだ乳母の手の中で、その時はきっと、既に乳母の部屋で休んでいたでしょう。
家族全員のそろっての夕食は、本来なら和気藹々とした楽しい夕食になる筈でしたが、その日は話題も少なく重苦しい気分でした。嫌な予感で皆不安だったのです。
その頃の台湾は、台湾全体を覆う不穏な空気に満ちていました。蒋介石の「一人の共産党を殺すためには全村人の誤殺も辞さない」と言うスローガンの下に、無垢の民衆を罪におとしいれ、横行している特務。連日聞こえてくる拉致、馬場町での死刑、銃殺の話。誰もが戦々恐々としていました。
それに、数日前、父が東京の蔵前工校(戦前の)時代の同窓に経営させていた会社の経理、蕭さんが、共産党嫌疑で捕まったと言うこともあり、前にも、二回ほど夜遅く特務くさいのが父を捜しにやって来てもいて、不気味な感じがしていたのです。蕭さんと父とは、留学以来、二十年余りも会っていなく、蕭さんが、終戦で台湾に戻ってきたが、仕事が無く、経済的に困っている。と父を尋ねて来たので、元来が友情に厚い父が援助してあげただけのことです。でも時勢が時勢ですから、父もこの事は気にしていて、戦前に中国に渡って、当時、国民党の特務頭になって戻ってきていた、同郷の林××などに、身を隠しすべきかと打診したところ、大丈夫との返事だったし、別に共産党に参加したこともなく、何一つ悪いこともしていないので自宅に帰ってきたのでした。
あとから、その林××が、父は彼等とは派閥が違う、保密局の組織に捕まったのだと言っていましたが、今にして思えば、それは父の救命に奔走する母から財物を巻き上げる為の、彼等の仮面だったのかもしれません。
後日、保密局の組織の組長、谷正文が出した回顧録に拠ると、逮捕の理由は、劉明を捕らえれば、劉明の持っている二台の外車が没収できるからと言うのだったとの事。二台の外車はフォードとオースチンで、戦後間もなくの頃の台湾では珍しく、彼等にとっては、垂涎の的だったのでしょう。事実、その二台はすぐ持っていかれました。それが下級捕吏共の奨励品だったのだとは考えられますが、国民党の真の目的は、民衆のリーダーとして尊敬されていた劉明をおそれ、父を抹殺し、財産をぶんどるのだったのだったと思います。
二 逮捕 別れ
食事も終わりかけた頃、突然、呼び鈴がなり、門を荒々しく叩く音がして、「劉先生在不在」(劉明さんは居ますか)と言う呼び声。一瞬、又来たと、皆顔色を変え、母は急いで父に隠れるように言い、父も急いで裏庭の築山の蔭に隠れました。弟が応対に出て、まだ戻っていないと答えると、相手は大人しく踝を返すかに見せて、急に土足で踏み込んできました。山東大漢と言うのでしょうか、何人かの、物凄く大きな、野卑、精悍な感じの男達でした。
すぐに家宅捜査が始まり、私に、付いて来るように言うと、綺麗に拭かれた畳の上、美しい絨毯の上を、ずかずかと土足のままで踏み、父の書斎にまで踏み込んで、「上海との連絡の電信機は何処か」と聞くのです。そんなもの無いと答えると、壁際の大きな書棚の裏側を疑って、並べてあった本を片っ端から乱暴に床に払い落として探し、次に母の部屋に踏み込んで、母の化粧机の引き出しまでも片っ端から引き出して床に投げ、「よく見ろ、我々は何も盗っていない」と言うのです。
裏庭で飼い犬が盛んに吠え、鶏小屋の鶏がけたたましく騒ぎ出していました。
父が隠れていたのが見つかったのです。「捕まった」と大声がし、父が、今まで食事をしていた十畳の部屋に引き立てられるようにして連れてこられました。家宅捜査は打ち切られ、あの大男の中の一人が「この人は確かに劉明か」と家人に聞きましたが、私達の返事を待つまでも無く、初めから、父の身柄確認の為に派出所の巡査と隣長だか里長だかが呼ばれて来ていて、玄関に立って居たのでした。
後で私は、白いシャツで庭を歩く父を犬達が吠えた為、鶏が騒ぎ、それで父が隠れているのが知れたと思って、主人をも判明できずに吠えたてた馬鹿犬め。と随分犬を怒りましたが、実際は家の周囲を何台ものジープで隙間無く囲んでいた彼等の物々しさに驚き、不安を感じた犬達が一斉に吠えたのでしよう。
彼等のうちの一人が、在席していた私の主人に勤め先を聞いたので、主人が台湾大学付属医院だと答えると「台大なら叩けば何かほこりが出てくる」と言うのを、もう一人が 「もうこの大物だけでも帰ってからすることがたくさんある」 といったので主人は、危うい所で難を逃れました。耳の遠い主人は聞こえなかったのですが、私には聞こえて、息も詰まる思いでした。
すぐに退勤していた運転手の張さんが呼びだされました。今思えば、彼等は誰一人運転が出来なかったのでしょう。気の毒に、その張さんもそのまま三ヶ月ほど留置され、苦しい監獄生活を余儀無く強いられました。もう一台のオースチン車の運転手も車ぐるみ拉致され、こっちの方は少し早めに戻されたようでした。
フォード車は、ずっと後、父の判決後に返還通知があり、受け取りに行った人の話では、車輪は一つも残っていず、車の中の部品も盗れる物は全部盗られて、ただの外殻の鉄だけの「車」だったとか。
父が連行されて玄関を出る時、母は、かの大男達に、寒いから、せめてオーバーコートでもと、上海で買った一番上等のオーバーコートを父に着せるよう頼みました。勿論、彼等は承諾しました。そのずっしりと重さのある高級コートはその後戻っては来ませんでしたし、そのコートがすぐにも父から剥ぎ取られたのは、想像に難くありません。
父はオーバーを着ると内側に向けて立ち、並んでいる私達に 「すぐ帰ってくるから心配しないように」と言いましたが、あの時の父の、皆を見る気持ちはどんなに辛かったことか。玄関には私達家族のほかに、炊事の小母さんと二人の小間使い、末の弟を抱いた乳母、丁度来合わせていた乳母の夫、と、家中総出で出ていて、皆泣いていました。運転手の張さんが着いて、促されて玄関を出る父は、落ち着いて、威厳を保ち、ゆっくりと歩いて出ました。父は、自分の常用車(フォード、車両番号1903)で、自分の運転手の運転で強制的に連れていかれたのです。乗せられた車が路地を走り去るのを、私は必死になって「阿爸ー 阿爸ー(おとうさーん おとうさーん)」と叫びながら夜の道を追っていました。
後日張さんが言うには、私の叫び声を車の中の特務達が聞いて、せせら笑っていたとの事でした。妹も、「パパー パパー」と泣き叫んでいました。
後で知ったのですが、母はその時身籠っていたのでしたが、そのベビーは、ショックで流産してしまったそうです。当時、父も母も、もっと多くの子供を欲しがっていましたのに・・・・・・・・。
母は、その事をずっと黙って気振りにも出さなかったし、父の救出で必死だった当時の私は、そんな事を知る由も無く、ずっと後になってからその事を知ったのでした。
三 生死不明 特務の妻達
父がどの機関に、どういう訳で、何処に連れ去られたのか。私達には知る由も無く、その夜から、私達家族の父親探しが始まりました。
私は長女を身籠っており、四ヵ月でした。車を取られてしまった私達の乗り物は三輪車。父の住んでいた仁愛路の辺りはまだ田畑も多く、道も舗装されていませんでしたので、ゴロゴロの石ころ道を行く三輪車は、前後左右に揺れるばかりか、時には驚くほど高く跳ぶこともありました。主人の母がお腹の子を心配していたようですが、父を探し、救出するのに必死な私には通じません。一寸でも手がかりらしいのがあると、私と母は、昼と無く、夜と無く奔走を続けました。
父の日本留学時代の友人である、弁護士の「唐さん」は、法律をよく知らないばかりか、中国語すらも習いたての私達に、陳情書を書いてくれる為。そして、父の蔵前高校時代の同窓だという、北投の「葛さん」等が毎日のように相談に来ていました。あの林××は、特務頭で直接中に通じるということから、毎夜のように訪ねました。主人は、私と母の事が心配で、夜の訪問のときには、一緒に付いて来て、その家の外の暗闇で、薮蚊に襲われながら私達親子が出てくるのを待ってくれていました。
林の帰宅はいつも深夜過ぎ、時には黎明近くになることもあり、其の度に「残念だが、今日の会議ではとうとう劉先生の事は出なかった。明日の夜の会議で結果はわかるだろう。明日又来なさい。私の言い添えで、明日はいい返事が出来るだろう」と酒臭い赤ら顔での返事。そしてその妻は決まって「実は墓参りに帰る費用がほしいのだが」といった金銭の要求。母は、他に頼るところも無いし、父の命が助けられ、一日も早く帰れたら、と言う気持ちでしたので、仕方なく毎度何万と言う大金や黄金を包んで行ったのです。ある時丁度主人の母親が台北に来ていて、母がその為の金の延べ棒を包んでいるのを見たのでしよう。私にその事を話したので、私は秘密の取引がばれて父の命に関わったら大変と驚いて、強く否定したものでした。日本教育を受けた私達は、お金を林××の妻に渡すのも、はっきり出したら相手が気まずい思いをするだろうからと、「お願いします」といいながら、そっとその金包みを机の下に置いたり、菓子折りに仕立てたりしたのですが、今から思えばあんな卑劣下等な輩達に、そんな気使いは笑止千万、顔にでも投げつけてやっても良かったかもしれません。
林××ばかりではなく、何とか言う日本妻を持った日本語の出きる「長官」の所にも行きました。
この「長官」は、政府の中枢近くに居る人間だと言う事で、(特務関係の長官)父の三番目の兄が国民代表をしていて知り合ったのでしよう。この伯父は嘉義の有名眼科医でしたので、「長官」が欲しがっていた目薬を届けに。と言う口実で、訪問したのですが、勿論父の事が目的でしたから、持参したのも、目薬だけではありませんでした。この人の日本人妻とは、言葉も通じるので、少し話もしました。
この特務連中は、妻達も結構凄く、夫の女性関係の争いの話しなんか凄いもの、彼女らの一人から、これで、女同士で打ち合いをするのだと、ピストルと言うものを見せられました。戦時下の日本時代、女学生だった私も学校で軍隊教練等させられ、日頃の竹槍訓練中のある日、村田銃?だか、三八銃?だか、を一度だけ担いだ事があり、草山の裏山で兎追いを楽しんでいた父が猟銃を持って居たのも見たこと事が有りましたが、実戦に使う、本物のピストルをみたのはこのときが初めてでした。ピストルは敵と戦うのに使うばかりではなく、女同士の嫉妬の戦いにも使っていたのでした。凄いあばずれ達です。こういう連中にかかっては、当時のおとなしい台湾人をやっつけるのなんか、赤子の手をねじるようなものだったのでしよう。
四 思想犯
あの頃、白色恐怖と言う言葉はまだ無く、捕らえられた人は思想犯と言われていました。思想犯の家族も同類と見られ、かかわりを持つ事は非常に恐れられていました。前日まで、それこそ、二人の小間使いが茶菓の接待に明け暮れるほど多かった来客が、ぴったりと無くなり、親戚が訪ねてくるのも、裏に住む叔父を訪ねるという形で、叔父の家からそっと私の家の勝手口に入り、帰りも叔父の家の玄関を使っていました。誰も怖がって寄り付かず、毎朝来ていた野菜売りのおじさんまで、私の家に近づくと、何時もの甲高い呼び声を出さずに、そっと避けて通っていました。
父が何処に監禁されているのか、生死の程もまだ知れずにいた頃。毎日馬場町で死刑犯の銃殺があり、早朝、その朝銃殺された人の名が台北駅前に張り出されていました。それは、その人の名前の上に朱筆で×印がつけられ、名を朱筆で名前の上からすっと入れたのが、死刑にされた印だとのことでした。母は、父の事で奔走する傍ら、父の事業をも見ていましたが、今まで事業主の奥様として家庭に居た母には荷が重すぎ、事業は傾く一方。それでも、職員はまだ居ましたので、母は毎朝、張り紙を見に職員を駅前にやり、私達は、「社長の名はありませんでした」の答えにやっと安心して新聞を開けたものです。父が捕えられた事は新聞にも出ており、有名でしたから、何かあると必ず朝刊にでると思って、職員が帰ってくるまでは、新聞を開ける勇気が無かったのでした。
五 判決
長い月日が過ぎたある日、とうとう、私達に、父への面会が許されました。判決が出たのです。あの日本留学時代の友人蕭さんが共産党なのを知っていて、活動資金を上げていた、「助匪」というのが理由。蕭さんは間もなく獄死し、奥さんも特務の妻にさせられ、現在は連絡も有りませんから、真偽の程はわかりませんが、蕭さんが拷問に耐えかねて、彼等の要求通りの自白?をさせられた上での父の判決だったとも考えられます。彼等は、劉明と言う人物を抹殺出来れば良かったので、勿論有らぬ濡れ衣です。
十年の実刑。公権剥奪十五年。財産没収と言う判決。でも多くの人達に比べて、命だけでも助かったのは、不幸中の幸いという人も居ます。そのような言葉が通る時代でしたが、それは、夫の命を助ける為ならと、全財産をはたけ出した母の必死の奔走に拠る物だったのです。
初めて面会した時の父は、別人のように痩せて青白く、歩行も不自由なようで、父は何も言いませんでしたが(監視付では)今にも倒れそうな様子だったのは、まだ拷問の傷が治っていなかったのでした。
私に、此れでやっと「明るみに出られた」と言いましたのを、私はこれで命が助かったと解釈しましたが、あれは、あの時初めて、穴倉のような暗い獄房から、太陽の明かりのある場所に出てきた。と言う意味だったのかと思います。父は、思い出すのが辛いのか、判決前の獄中の事は言いたがりませんでしたので、その真意はとうとう父の在世中に聞きそびれました。
去年、政府は父達白色テロの犠牲者に、名誉回復の証書を下さいましたが、私は、父が国民党政府に捕らわれた事を、不名誉とは思っていません。むしろ、あの苦しさに良くぞ耐えて、生きて帰って来た。と褒めてもらいたかったぐらいです。
父の蒙った残酷、非人道的な拷問などは、筆舌に尽きるもので、その拷問に耐え抜き、為に、一人の有らぬ犠牲者をも出さなかった事実は良く聴かされ、父の娘としての私は、そのお蔭で、以前の受刑者、白色テロの犠牲者だった方々に、父に代わって大切にされていますが、あんなに傍から幸せと謳われ、その美しさを誉めそやされていた母は、あれから一度も経済的に良くなった事が無く、一生貧乏をして、父よりずっと先に亡くなりました。
しかし母は、どんなに貧乏でも、逆境にめげず、老いたら老いたなりに美しく、常に最上の気品を保っていました。そしてそれは、私達の、子女としての最大の誇りでもあり、心の傷を癒す慰めでもありました。
当時四十九歳。働き盛りで事業も順調。順風を帆一杯に膨らませた船の様な父の将来が、一瞬にして葬り去られてしまった、あの運命の夜。思い出すだにおぞましいあの夜の事。とうとう書きました。
台湾に起こった残虐物語。国民党の残党が躍起になって否定しているこの事実。今にも忘れられそうな、こんな事実が台湾に実際にあったと言う事を書き記してこの文を閉じます。
歴史の真相は、絶対に抹殺されるべきべきではなく、この先、永久に再びこのような悲劇が起こることがないようにと祈りつつ。
2005年 11月4日
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