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新店軍人監獄
拷問、でっち上げなどでの犠牲者で、生き残った人達の行く先、それは一般民間の犯罪者の行く監獄ではなく軍の管理の下に置かれた軍人監獄でした。それは、大きく言って台湾本島内の監獄と、火焼島と言う離れ小島に設立された監獄に分かれており、火焼島に行ったら、長い服役期間、親の死に目にも戻れず、面会も叶わなかったようです。たまに刑期半ばで台湾に送り返されるのは、もっと酷い刑罰、たとえば銃殺などと言う例だったのです。
私の父は看守所の後いくつかの台北付近の監獄を回されて、最後に台北県内、新店の軍人監獄に入れられました。その監獄の、週一回の面会日には、私達家族は必ず差し入れの品々を持って父に会いに行っていましが、ほとんど家族と会うことの出来なかった、離れ小島の火焼島より、その点では少しばかりよかったのです。しかし、それも台北近郊に住む一部分の人々だけで、地方からの人々は、そのようには行きませんでした。
新店の軍人監獄には、鉄道関係者が多く収監されていました。鉄道員は概ね安い月給でしたので、一家の働き手を捕られた家族の経済状態は、どんなに苦しかったことか。殊にその頃の世間では皆、思想犯の家族とは関わりたくなかったので、家族が仕事を求めるのも困難でした。従って三度の食事がやっと。と言う状態で、交通条件も悪い、遠い南部から台北の監獄まで面会に来る事の出来た人は多くありませんでした。
ちなみにその頃は、思想犯が長い刑期を終えて戻ってきても、職を得た途端に警察が調べに来るので、連累を恐れた雇い主からすぐに免職されたり、借家をしても、引っ越してきた翌日には、すぐに当局の者が調べにくるので、これも同じく連累を恐れた家主から出てくれと頼まれるなど、娑婆に出ても生活は困難でした。当人は、定期的に当局に出頭する事を命じられていた他に、常に見張られても居て、この調査行動は、私の父も含めて、随分長くついて回っていました。出国できるようになっても、出国前には必ず、旅行目的と期間などの報告をせねばなりません。父の場合には、出所後20余年にもなって、アメリカでの孫の結婚式に出席した時、その式場で誰がどの歌を歌ったのかまで当局に報告され、(実は、”望君早帰“と言う、旅に出た夫を待ちわびる妻の気持ちを歌った台湾民謡で、当時の禁歌でした。犠牲者達が一日でも早く自由の身になるように、と皆で黙祷した後の合唱でした。)
父が日本に遊びに行った時には、帰りに降り立った松山飛行場で、少し遅刻した私の出迎えを父が待ちわびてタクシーに乗ろうとしていた時の状況まで報告されており、それを当局から言い渡された父が「じっと付いていたのなら、ついでにお前達の車で市内まで送ってくれたらよかったのに」と皮肉った返事を投げたそうです。
新店の軍人監獄に行くのには、台北市内からバスで新店に行き、そこからあの有名な新店の大橋を通って対岸に渡り、山手に向かって奥の安坑へ、更に安坑の町外れから山沿いに、やっと人一人が通れる程の狭さの、昼なお薄暗い山道を上がって行きます。辺鄙な所で、山道の脇に、山肌を祠のように縦長に小さく掘った中に、名も記されていない無縁仏の骨壷がそのまま嵌め込まれているのが所々にあって、置かれた際に上げられた線香なのか、その後、誰か通りすがりの人が、その哀れさにそっと上げたのか、最後の線香は何年前なのかも知れず、線香の赤い燃えさしの足が寂しくその骨壷前の地面に挿されて、汚れていました。山道を通り抜けると、今度は臨時に切り開かれたかのような、広い展望。今通って来た山道は、片方が山の斜面で、反対側は3メートルほど下がったところに小さな、みすぼらしい田畑などがあって、辺鄙ながらも人気を感じさせられるものがありましたが、其処は、一本の木も、草すらも生えていない、赤茶けた土だけの廣野。夏は酷い日照りで全身汗まみれ、冬は山から吹き降ろす風で凍えながら其処を超えると、やつと丘の上の監獄につくのです。見上げるほどに高いコンクリート壁を巡らせたその正面に大きく掲げられた「軍人監獄」と言う額を見て、私は鬼ヶ島の門だと思ったものでした。
面会の所謂「受付」と言うのは、固く閉ざされた門の傍らにしつらえられた小さな窓で、面会人は、顔を出している係りの者に、受刑者の名前と番号を言います。監獄内では、受刑者は番号で呼ばれているのです。
それがすむと、それからは窓口の中の者の、「気が向いた時」を待つ、長い、長い、待ち時間です。一応、面会時間の決りはありましたが、それが守られたことは無く、時には朝から、陽の落ちる頃までも、誰も現れないこともありました。壁の外は全くの露天で、雨露を凌ぐ屋根はおろか、刺すような強い日差しを覆ってくれる樹木の一本も無く、食べ物は勿論、水もなし。ただ裸の地面が広がっているだけ。私達はそこら辺に転がっている、此処を切り開いた際に出て来たと思われる大小の石の、あまり表面の尖っていないのに座って照りつける太陽の下で、何時までもじっと待つよりほかはありませんでした。
或る夏の昼間時、とうとう一人の台湾服を着た老婦人が気絶してしまったことがありました。捕らえられた息子に会う為に、野良仕事を休み、南部の田舎から夜も明やらぬ中を、懐中電灯を頼りに駅に急ぎ、一日がかりでやっと来たのです。恐らく、食事もろくに取らず、飲み水も尽きたのでしょう。私達が三輪車で越えて来た、あの大橋を、長い田舎道を、一歩一歩と歩いてきたのでしょう。「暑さに当ったのだ」と周りの人達が急いで日傘を差し伸べたり、団扇で扇いだりして助けようとしたのですが、蘇生しません。小窓の中からもこの騒ぎを覗いていましたが、涼しげな顔ですぐに窓を閉ざしていました。現在の常識なら、すぐに駆けつけて来ないまでも、誰かが窓の戸を叩いて手当てを頼むのですが、あの頃は、そんな事に思いつく人も無く、思いついても助けてくれるなどとは誰も思っていませんでした。彼らに取って、受刑者の家族も罪人で、家族を人間並みに扱うなど思いもよらなかったのでしょう。その時、ある男性が、突然倒れていた老婦人の靴を脱ぎ取るや、いきなりはだしの踝に噛み付きました。其処がつぼだったのか、あっけに取られている人々の前の、その一噛みで老婦人は蘇生したのです。裸足になって始めて見えたあの、纏足を解いた足のサイズと粗末な台湾服が、彼女の年齢と生活を語っていました。真夏の日照り道を一日歩いた足にかぶりつく事など、誰が思いつくものでしようか。此処まで来たら、身分も貧富も男女の差も無く、皆同様に、囚われている者の家族です。思いは同じ、この鬼ヶ島の中に捉えられている身内を案ずる事だけ。憂いと疲れを顔に表しながらも、私達はお互いを庇い、何時間でも面会の出来る時をじつと待っていたのでした。
やっと開いた大門の中に、皆駆け寄りました。門の中は広場になっていて、真正面に大きな監獄の建物。正面玄関は威厳を保つためか、高い階段の上にありました。その建物の端、大門の近くの、掘っ立て小屋のような所。そこが面会所でした。なだれ込んだ家族達に更に手続きがとらされます。面会所の細長い室内の、片方の厚い壁に、いくつかの、えぐられた穴のような小窓があり、その壁の中に、今日の面会者が連れられてきていて、名前を呼ばれた家族が開かれた小窓のそばによると、受刑者がそこに待っているという仕組みでした。面会時間は何分ほどか忘れましたが、家族にとっては常に短すぎ、言いたい事を早口で言い終わらない内に窓が閉められてしまうのです。私達が大切に持ってきた差し入れの食物は開けられ。看守が細い棒でかき回して異物の有無を調べるのですが、その乱暴さは、父の置かれている環境を物語って、見ている私達には耐え難い有様でした。
一度に幾つもの窓が開くので、父の番を待っている間に、私は時々他所の窓を、その家族達の後ろから覗きました。窓枠に取りすがって泣く家族。窓から少し離れた所で止らせられている受刑者の青い顔。
或る時、その窓の高さに顔が届かないほどの小さな男の子が中に見えていました。聞けば学校での作文に書いた、何らかの言葉が政府に対する不満と取られての入獄だと。面会に来た親らしい人が悲しそうに言っていました。又ある窓には、白い髭を長くたらした老人。捕らえられる本人が不在だったので、代わりに父親が人質として入れられ、驚いた息子が出頭した挙句、息子は元来の罪で入獄、親は帰されるどころか、犯人隠匿という罪で息子よりも重い刑期での収監。聞かされた刑期は忘れましたが、かの小学生共々、生半可な年限ではなかったとだけは覚えています。家族が悲しげに「父は多分刑期を終えることはないでしょう。あの歳ですから」と言った言葉が今でもはっきりと思い出されます。刑期の終わる前に寿命の方が先に終わる。という意味なのです。
監獄の中庭に、職員の為なのか、簡単な休憩所の様な所があって、中の小さな売店で飲料などを売っていました。何度も行っている内に私は、粗末な木製の机や椅子のあるその一角に、毎回一人の年取った受刑者らしいのが、一人の中年女性と座っているのに気付きました。女性は玄人なのか、タバコも吸って、二人は余り話しもせず、時々私達の方に顔を向けるだけ。後でわかったのですが、その中老人は、中将かそこらあたりの軍の高官で、中共との戦いで戦功も有ったのだが、同時に、当時の金で何千万(八千万と覚えていますが)と言う金を横領した為の入獄。蒋介石からの、金を返せば釈放すると言う交換条件だったのを、この歳で、以後そんな大金を儲ける事はできないとの判断で、その条件を飲まず、ここで大小の看守達に金をばら撒いて優待を受け、六人ある妾が、毎日交代で来ているという事でした。嘘か真か、しかし、当時の状況から見て有りうる話でした。
袖の下の話では、こんな話も有りました。ある国民党軍の高官が捕らわれ、軍事法廷に掛けられる事になりました。その妻は、中に立つ人に教えられたとおり、黄金(100匁とも、言われますが)を持って軍法署の署長の自宅に行ったのです。所が運の悪い事に、その妻なる人が大変な美人だったので、その晩其処に強制的に泊められ、黄金を取られてばかりか、貞操をも奪われ、しかも、その夫は死罪にされたのです。我慢の出来なかった妻は、署長の罪状を書いた紙を竹棒の先に挟み、蒋介石が毎朝、士林の官邸から総督府に行く道筋の中山北路(日本時代の勅旨街道)に蹲り、大声で泣きながら竹を差し出して直訴に及んだのでした。さすがにその署長はすぐに捕らえられて銃殺。しかし、その女性も、総統の道を阻んだと言う罪で、無事にはすまなかったとか。清朝の再現の様な話ですが、直訴と黄金と女の話は、本当でした。
看守といえば、私の父にこんな事がありました。新店監獄に来る前の監獄内でのことです。女監内に赤ちゃんが産まれたと聞いたので、父は自宅からの差し入れに粉ミルクを注文して、獄吏にそっと、そのベビーに上げるようにと渡させました。父はそんな規則違反をこころよく承知してくれた獄吏を、人情があると褒めていましたが、ずっと年月のたった有る日、出獄して台大医院の看護師になったその母親とぱったり会った私が聞いたところ、赤ちゃんの所へは一缶も届かなかったそうで、粉ミルクは皆、その獄吏の口に入っていたのでした。どこまでも人の善意を信じていた私達の負けでした。
監獄内には地方からの人達も多かったので、差し入れをして貰えない人も多く、父は自宅からの差し入れの品物を必ず、同室の全員に分けていました。何時も、次の差し入れ品を書いた用紙には「バナナ一房、下駄何足、シャツ何枚、黒砂糖一斤、と複数の注文でしたのが、ある時見つかって、私が監獄長に呼ばれ、「この中に入れられているのは、皆極悪人ばかりなのに、お前の父親は、前非を悔いずにあいつ等に物を分けてあげている。怪しからん。これからは、差し入れの物は、何でも一つだけと決める」と叱られました。その剣幕に始めは私も自粛していましたが、間もなく父の注文道理に戻ったのは言うまでもないことです。
黒砂糖が必要だったのは、暑さに眠れない夜、獄室内では、二人ずつ組んだ当番を決め、毛布を広げて室内に渡し、この二人が、両端を動かせて横になっている人達に風を送っていたのです。その毛布の屑、舞い上がる埃等で濁り切った空気を吸った肺を清掃するには、黒砂糖水を飲むと好いといわれていたのです。
そんなある日、台大医院に勤務中の、私の主人の所に、父が監獄長を連れて来ました。見ると、監獄長の太った巨体をもっと大きく膨らませて、腹部がパンパンに、今にも破裂しそうに張っています。サルファ剤の不当な服用に因る副作用で、尿道が詰まって排尿が出来ず、苦しんでいたのでした。主人は早速まだ退勤していなかった泌尿科の先輩に頼んで監獄長の導尿をしてもらい、監獄長の危機が救われました。あと少しでも遅れていたら、排尿不能で、腎臓機能が壊されて重篤な状態に落ちるという事でした。危機一髪の所で命を取り留めた監獄長は、それから父の事を番号ではなく名前で呼んでいたそうです。彼がいざという時に、監獄の医者を呼ばずに、父の婿が台大に居る事を思いついたのは幸運でした。「あの時の、ピユッーッと飛び出した尿の勢いのすごかったこと」と主人は今でも感嘆しています。
この文を書かねばと思いついてから、ずっと苦しかった昔の事がまざまざと目前に浮かび、気持を落ち着かせるのに長い時間を取ってしまいました。白色テロの犠牲者達の強いられた非人道的な生活は、今では多くの人々に忘れられそうになってはいても、まだ細々と語り継がれていますが、その蔭に泣いた家族の悲しみも、絶対に忘れられてはならない歴史の一齣です。この家族の苦しみのなかの、せめて私の見聞だけでもと、書き記しました。
2010年7月19日
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