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看守所 監獄
 
何万とも知れない無辜の人達を、己の暴政の犠牲にした、蒋介石率いる秘密結社の暴挙、白色テロ。
その犠牲者達が、最初に引き捕えられて行った先は、台北市内の各所に設けられた、秘密の尋問所でした。
其の名は看守所と言われて、まるで、一般のコソ泥やチンピラが一時留置されている所のような軽い名称でしたが、この看守所という名は、あの頃では、泣く子も黙る、怖ろしい名前でした。一旦看守所に入れられたら、先ず、大部分の人達が、生きて出られると言う望みを諦めねばならなかったし、命からがら出てきたとしても、無傷。と言うのは絶無だったでしょう。
父も其の中の一人で、十年の実刑を終えて、ようやく自宅に戻れましたが、獄中の事は思い出すのが辛いのか、話したがりませんでした。しかし父は、九十二歳で亡くなるまで、毎夜のようにうなされて、苦しそうな悲鳴を上げていたのです。
白色テロの生き残りの方々の証言などによれば、蒋介石の手下の獄吏達は、(調査員と言っていました)捕まえた犠牲者(あの時代には思想犯とされていました。)の罪が重ければ重いほど、もらえる賞金が多くなる制度で、為に、拷問で無実の罪をどんどん積み重ねてその犠牲者の罪状を増やし、最終的には死刑に持っていくのが、彼等の目的だったのです。それに、彼等の逮捕機関は、一つだけではなく、二つか三つの秘密機関が同時に動いていましたから、極短時間に、あんなに多くの犠牲者を作り出していたのでした。
捕えられた人達の中には、彼等の目的の、潜伏共産党員も若干居ましたが、無実の人達が多く、彼等は其の人達にも罪を認めさせるために、あらゆる手立てを使いました。身に覚えの無い事をでっち上げて承認させようと言うのですから、誰でも始めは否定します。それを酷い拷問で承認させるのです。ある生き残りの方の書いたのに、「手足の親指の爪を剥がれるのは拷問の初手で、それはとっくにされていた」とありますが、爪と肉の間に針を差し入れる。爪を剥ぐ。と言う事は、拷問の中の初期の仕打ちだったとのことです。阿鼻叫喚の生き地獄とは、こう言う事を言うのでしょう。
其の方(郭振純さん)の経験談では、「手足を縛られて袋に入れられ、水辺に連れて行かれた。彼の前に、苦し紛れに彼の名を言ってしまった友人が、矢張り袋詰めにされて居り、その人が先に水に落とされる音がした。そこでも、もう一度尋問を受けたが、郭さんは頑として応じなかったので、彼も水中に投げられ、深く沈められた。が、袋の口が引っ張られている感じがしたので、きっと引き上げられると信じて、じっと息を止めて最後まで我慢した」とあります。それでも言われた事を承認しなかったので、次には「全身を真っ裸にされた上、手足をがんじがらめに縛られて、叢の中に放り投げられ、砂糖水を上から全身に掛けられたので、直ぐにやって来た無数の蟻が体中を這い回って噛み、痒さと蟻酸で痙攣を起こして、気絶寸前だった。」と有ります。でも彼は、「学校で日本人の教師から、男子はどんなに苦しくても悲鳴を上げるものではない」と教えられていたので、歯を食いしばって、最後まで一声も出さなかった。と言っています。その惨状にさすがの調査員も見かね、自分の口に指を差し入れて誰の声かはっきりしないようにして、彼の代わりに偽りの悲鳴を上げたので、付近から人が出てきてすぐ塩水をかけて蟻を退け、彼は其の時に始めて気が遠くなったそうです。こんな酷い拷問を、調査員の主任は、その拷問を題して「蟻儀上樹(春雨とそぼろ肉をいため合わせた四川料理の名)」と言い、始める前に「お前、蟻儀上樹と言う料理を知っているか、それをご馳走してやろう」と言ったとのこと。彼の罪はといえば、国民党が、倒したがっている人物の、でっち上げの罪状をこしらえ、其の要人の近くにいた郭さんに証人のハンコを押させようとしたのに、彼が頑として承認しなかった。と言う事。それで彼は命こそ助かったが、代わりに、二十二年二ヶ月と言う、長い監獄生活を強いられました。
より多くの思想犯を捕らえる為には、捕えられてきた人から、その人の友人の名前を聞きだすのが一番手っ取り早い方法でしたから、彼等はそれを拷問で聞き出していました。
日本政府の残した綿密、且つ正確な戸籍簿で、彼等は名前さえわかれば直ぐにでもその者を捉えることが出来たのです。戸籍は、山奥や辺鄙な寒村にまで及んでいましたので、嫌疑を掛けられた者は逃げ場が無く、自宅の穴倉に何十年も隠れて遂に病死したと言う記録も有り、生後間もない赤ちゃんを道連れには出来ずに、人目に付く場所において逃げた若夫婦の話も聞いたことがあります。
この様に、彼等の拷問のすさまじさは、多くの生き残りの方々の著書などで、私が申すまでも有りませんが、父の場合は、袋に詰められて上からぶら下げ、外から滅多叩きに叩かれて、足は氷の上に何時間も立たせたそうです。それも毎日で、歩けなくなった父が、壁伝いに歩き難そうに行くのを、同じ嶽舎に居た運転手が垣間見ていました。運転手の獄房からは、父の獄房の前が少し見えたので、父の靴が未だ置いてあるか否かで、父の存命の有無を伺っていたそうです。 
有る時、父はあまりの拷問に気絶し、中々覚めなかったので死んだと思われ、庭の軒下に放り出されました。翌朝のごみ収集のトラックに捨てさせる積りだったようです。それが、夜露に当たった為か、翌早朝、前日の便桶を捨てに行く当番の人が(この人達も思想犯でした)見つけて、生きているらしいと、尿を傍に掛けてみたので息を吹き返し、獄舎に戻されたと言います。こんな目に会ったのも、父が最後まで一人も友達の名を承認しなかったからだと、私は、帰って来た犠牲者の方達から聞かされました。
尋問期間中の獄房もひどいもので、日本時代に留置所として使っていた二人分の部屋になんと四十人詰め込まれ、横になる場も有りませんでした。あまりの人数に留置所では足りなくなって、急遽拵えられた場所は、樹皮も削られていない、裸の丸太をそのまま並べた床で、横になると痛かったし、冬は丸太の下から吹き上げる冷たい空気が肌を痛いほどに刺すのです。勿論其処も超満員。夜は交代で横になり、用足しに起きた者が自分の場所に戻る時には、他人の体を踏んでしまいます。
夏には汗、涙、血、にまみれた部屋に、虱、蚤が発生したのは当然の事。健康を害し、下痢するものが多かった獄室に置かれていた便桶は四個。大小便各二個で、その臭気の強さは言うまでも無いことでしょう。全員で交代に便桶の傍の位置に寝るのですが、若い人達に尊敬されていて其処には割り当てられなかった父は、しかし、絶対に皆と同じく、その一番辛い場所にも寝たといいます。 
臭い便器は、翌早朝、当番が担いで外に捨てに行くのですが、その役目を皆欲しがっていたと聞いて驚きました。実は、便桶を担いで外へ出ると新鮮な空気が吸えるし、タオルで体を拭く事が出来たからだとのこと。
重大犯達は、一週間毎に部屋換えをさせられます。どの部屋にも偽の思想犯がスパイとして入り込んでいて、室内の話を密告し、看視していました。叉、ある人を尋問のように見せかけて、調査員の部屋に呼び、タバコをその場ですわせました。何事もなく帰って来て、しかも体中タバコの匂いをぷんぷんさせていたその人は、同室者の羨望と強い疑惑を招いたそうです。扇動して、仲間われをさせる、実に巧妙な手口だと、帰って来た父の運転手が言っていました。運転手は叉、父が連れ去られた時に同時に私達から略奪したあのフォード車が、其処で、拉致に出かける彼等の交通器具として使われていたのを、車のラッバの音で聞き分けていました。彼が毎日丁寧に拭い、整備をしていた車ですから、ラッパの音だけであの車だと解かるのでしよう。
拷問の次に来るのは判決。裁判などの無い、一方的な判決言い渡しです。ある政治犯帰りの方に、その方の収監期間を聞きましたら、自分は三年の懲役、「一番安いのだったよ。」と物価の事を言うような口ぶりでの、さらりとした返事が返ってきました。あの時の世情を反映し皮肉った、意味深長な答えです。其の方は、ただ、友達が本を預けて行った。というだけでの事でした。二十年、三十年の実刑と言うのはざらに有り、彼の、三年の実刑と言う判決は僥倖といえたのでした。四十年の刑を終えて出嶽した人の、四十年間をずっと待っていた婚約者との結婚に、父が招ばれたことがあります。二人とも還暦近くになっていたが、とても嬉しそうだった。と父が言っていました。新郎は、結婚直前に捉えられたのでした。こんなのは、幸運な方で、数十年の刑を終えて出てきた人が、我が家に飛び込んで真っ先に父母の名を呼んだが、待っていたのは物言わぬお位牌だったという例も少なくありません。親が、心配のあまりに早逝してしまったのを、獄中の人を悲しませぬようにと、周囲の人達が隠していたのでした。
法廷は 世論を騙す飾り物 生くるも 死ぬも好き勝手にて  江槐邨作
                              台湾歌壇第五集より
四十年でも、五十年でも、命さえあれば帰れます。しかし、あの頃、日常茶飯事のように耳にさせられていた「死刑」。銃殺されて永久に帰らぬ人の如何に多かったことか。最近発見された報告によると、重大事件と称される件は蒋介石が直々目を通したが、蒋は重刑に満足せずに、多くの判決文を「死刑」と書き直させて居たと言う事です。しかも、死刑判決された人は、銃殺直前と直後の写真を必ず蒋に見せるように命ぜられていました。勿論その多くの写真の中には女性も居て、最近行われた白色テロ展覧会の中の、ある女性犠牲者(丁窕窕さん)の写真は、出産後一ヶ月足らずで捕らえられた為、その赤ん坊も一緒に監獄内に長い事居たのが、突然引き出されて銃殺されたので、最後に一目、幼な子とも別れをする事もならずに引き離されて刑場に引き立てられた、やつれ果てた銃殺前後の写真でした。それは、見るも辛く、胸のうずく思いのものでした。捉えられる前の彼女は、ぽっちゃりとした可愛いお嬢さんだったそうで、恋人もあり、勿論、共産党員でも無かったのでした。その恋人も同じ監獄に入れられていたので、ふとした事からそれを知った彼女は、監視の目を盗んで、自分の爪と毛髪を秘密の場所に隠し、自分の亡き後は故郷の木の根元に埋めるようにとの添え書きをしておりました。彼女の其の望みは、恋人が長い獄中生活を終えた後、やっと叶えられたとのことです。
 
君散りて 半世紀経ぬ 誓い言 未だ成らずに 詫びし老いぼれ 郭振純作
短歌勉強会2005年作品集「龍」より
「生きたい」と 一人呟く二条一項の 獄友(とも)に慰めの 言葉浮かばず 江槐邨作
台湾歌壇第5集より
二条一項とは「死刑」の判決条例です。絶対に助からない銃殺の日を待つ同室の難友に、懲役三年の判決を持つ彼は、生きたいと呟く友に言うべき言葉を捜しえませんでした。
父は私達家族には話しませんでしたが、父の獄室にもこういった難友が居て、父は銃殺と決まったその方々に「台湾青年の血は、汚れた服の上に流してはならない。いよいよという時には、これを着ていくように」と自分の新しい白シャツを渡していた。と後日、其の方の奥様が皆さんに話されていました。
台湾の若者を愛し、いつくしんでいた父が、自身の明日の命をも知れない監獄内で、死に行く青年にそれを渡す時。其の言葉には、どんな思いがこめられていたのでしょうか。
父はよく「入る前は鉄だが、出る時は剛(ハガネ)になって出る」と私達に言っていました。
 
 
2007年8月9日  心心
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